マルクスと荘子の心理学 マルクス+荘子の哲学 · 誰もが本来、すべてを備えている

つながりシリーズ

疲れ果て、苦しみに耐える日々に光を見る――今を生きる、今ここが彼岸

みじめな姿で耐え忍ぶ日々に、光を見る:今を生きる、今この瞬間こそが彼岸

あるネットユーザーが、働き始めたばかりの頃、ある同僚と交わした会話のいくつかを日記に残している、と書いていた。その同僚は、今では十一年来の親友で、二人は互いに励まし、慰め合っていた。

それは、絶望して感覚が麻痺しながらも、若く、希望を抱き、一日一日を耐え忍んでいた日々、みじめな姿で、自分を責め、自分は平凡だと感じていた日々の中で、数少ない本物の光だった。

当時ももちろん、その慰めがとても大切なものだとわかっていたし、とても感謝していた。けれど、それこそが大いなる光であり、深いつながりであり、彼岸そのものであり、生命の根源、真髄なのだとは知らなかった。あの頃はまだ、自分の外に、遠くにあるものを求めていたからだ。

二つの真心。一つの真心は、みじめな暮らしの中で光を放ち、自分をいたわり、養い、自分を成就させていく。もう一つの真心は、光をもって、ここにつながる。

二つの真心は、それぞれに安らかでありながら、互いにつながり、養い合う。

これこそが、人間の本来の十全さであり、自性の光であり、天人合一なのだ。

今を生きる。今この瞬間こそが彼岸なのだ。

この暮らしは決して、真っ黒で平凡な練炭などではない。その内側に光と炎がきらめき、光を抑え込むことのできない、流れる黒と赤の溶岩なのだ。自性の光は、いつも私の進む道を照らし、私を養ってくれる。暮らしはしばしばつらく苦しく、業の障りもしばしば深い。それでも自分をいたわることができ、ときには心穏やかでいられる。それこそ、本来の自分の強さの表れではないか。

今ここにある美しいつながりに感謝することは、今ここにある光を見ることだ。

かつて私は光を探していた。けれど、その光は私自身だったのだ。心こそが仏であり、私こそが光なのだ。