マルクスと荘子の心理学 マルクス+荘子の哲学 · 誰もが本来、すべてを備えている

業の障りシリーズ

とても新しいタイプの小我――「課題をこなす人」の小我

まったく新しいエゴ、「宿題を課す人」というエゴ

修行をしている人の多くは、心のあり方や認識が成長したと感じたあとに、かえって、まったく新しいエゴが現れてくる。「努力する人」というエゴ、修行者というエゴの、また新たな変種である「宿題を課す人」というエゴだ。
二、「宿題を課す人」というエゴとは何か
深層の心/リビドー(業の障り+本来の十全さ)は、すべてを知り、あらゆることに動き回り、すべてに対処している。ところが「私」、つまりエゴの意識や思考は、それを受け入れず、あれこれ余計なことをして、清静無為でいられない。
私は『「私」の構造――実なる私がリビドーに寄り添う』で、リビドーについて比較的体系的に論じた。
しかし、リビドーが仕事をし、遊び、くつろぎ、創作しているのだと「私」が気づくと、「私」にある考えが「芽生える」。リビドーの兄貴分に、何か宿題を出してやろう、と。(私は最近、自分の内なる深層の心を、リビドーの兄貴分、あるいはリビドーの象と呼ぶのが習慣になっている。)
やれやれ! また「監督役」の登場だ。自己搾取と、自分に鞭打つことがまた始まった。努力への強迫や、問題を解き続けずにはいられない癖が、また顔を出した。
この記事で言いたいのは、そういうことだ。
三、どんな宿題を出したのか見てみよう
リビドーに山ほど宿題を出す。さあ、リビドー、この問題を考えてみよう。さあ、リビドー、このテーマで書いてみよう。さあ、リビドー、今夜はライブ配信をしよう。
「宿題を課す人」というエゴは、子どもと一緒に遊ぶのは好きなのに、何をして遊んでも、必ず作文や感想文を書かせる人にそっくりだ。
これは本当に恐ろしい。
ある修行者はこう言った。いちばん笑えるのは、今ではときどき、公園に行くのさえ怖くなることです。公園に行くと、「宿題を課す人」というエゴが顔を出すんです。1. さあ、リビドー、公園をぶらぶらして、どんな感想が湧くか見てみよう。ははは、君の言う「清らかな静けさ」を探しに行こう。
2. どうだい、またここに連れてきてあげたよ。君に優しいだろう。さあ、前に感じたあの天人合一の感覚、静けさを取り戻して。くつろいで、静かで、悩みのない、あの感覚を見つけて。
3. 早く、早く魚を見て、鳥の声を聞いて。早く木の葉を見て、葉っぱに触れて。
リビドーはもともとうんざりしているのに、「宿題を課す人」というエゴにこんなふうに振り回されると、ますますうんざりする。公園を見るだけで怖くなり、自然を見るだけで怖くなる。
四、宿題から逃げ、エゴから逃げる
ある修行者はこう言った。「宿題を課す人」というエゴのせいで、しばらくの間、リビドーは、あのいちばんきれいな小さな公園にあまり行きたがらなくなり、代わりに別の小さな林へ行くようになりました。そこは新鮮で、全身全霊で新鮮な感覚に浸れるからです。エゴもいなければ、宿題を出す人もいません。私は公園から逃げているのではなく、自分から逃げているんです。
結局のところ、リビドーが私たちを導いている。リビドー自身が、エゴと付き合っているのだ。「私」が内なる子どもを癒やしているのではなく、内なる兄貴分が私を包み込み、私を癒やしている。
五、「宿題を課す人」というエゴの貪・瞋・痴
「宿題を課す人」というエゴは、貪・瞋・痴の新たな変種だ。清静無為、自然の成り行きに任せて、リビドーに静かな日々を送らせてあげよう。
フローは、出会うことはできても、求めて得られるものではない。それでもみんな、その状態をひたすら追い求める。だが、その追求こそが、私たちをフローから遠ざけている。
フローとは、リビドーが流れていること、リビドーの兄貴分が踊っていることだ。一方、フローが「欲しい」と思うのは、エゴが余計な邪魔をしているということだ。
以前、まだ実力がなかったころは、たまにまったく新しい、すごい洞察を思いついたり、書けたりすると、飛び跳ねるほど喜んだ。ところが今は、「実力が上がった」ので、どれほどいい文章を書いても「できて当然」と思い、続けて「もっと書け」、「どうして書けなくなったんだ」となる。貪・瞋・痴だ。監督役による搾取だ。これで実力は上がったのか、それとも下がったのか。素朴さと、自分にはできないことを受け入れる姿勢を失っては、普通の人としての一生を十分に生きていけない。
六、清静無為
公園に行くのは、ただ公園に行くということ。自分に何の課題も出さなくていい。
気の向くまま、思うままに、リビドーがしたいことをすればいい。子どもを砂浜に放っておくように。人生で、自由気ままにいられることはそう多くない。
清静無為でいれば、本来の十全さを備えた本来の自分の光が自分自身を照らし、業の障りという堅い氷を温め、溶かしてくれる。
あの砂浜の子どものように、本来の十全さを備えている。思うままに遊び、探索し、創造するに任せよう。