マルクスと荘子の心理学 マルクス+荘子の哲学 · 誰もが本来、すべてを備えている

荘子シリーズ

自然に任せる

自然の成り行きに任せる

一、おのずとそうなる
仕事も、休息も、楽しむことも、静けさも、喜びも、計画を立てて調整することも、突破や成長も、すべておのずとそうなる。時に安んじ、命に従う。すべてが自然で、悠々自適、力を振り絞って努力しているという感覚はまったくない。
人は自然に動いていく。手綱を緩め、馬の行くままに任せればよい。
二、力むと道を外れる
(一)疲れた馬に鞭を打つ
以前、ものがわかっていなかった頃は、外側のこと(目標や能力不足)にも、内側のこと(自己不信や自分を駆り立てること)にもよく苦しみ、その不安や苦しみ、自分への鞭打ちを「努力」だと思っていた。苦しく、疲れ、焦っているところへさらに鞭を入れ、狂気と破滅へ向かっていた。
たとえば金融業界では、CFAやCPAの試験に受かるだろうか、株取引や投資が自分にできるだろうか、マクロ経済を理解できるだろうか、数十人を管理できるだろうか、一流のファンドに入れるだろうか、北京で家を買えるだろうか、妻子を養えるだろうか、両親や子ども、甥や姪の暮らしと運命を救い、好転させられるだろうか、など。
(二)努力という形への執着
『努力についての特集論考』。多くの目標は、正念と時運によって、おのずと達成される。あのような焦りや苦しみ、自分への鞭打ちは、かえって自分の境地が高まるのを妨げてしまう。
三、今を生きることと、自然の成り行きに任せること
(一)よりよく自分であること、よりよい自分になろうとすることではなく
新しい能力が身についたからといって、私はそれまでの自分を殺してしまうわけではない。セーターを編めるようになっても、スキーができるようになっても、名門校に合格しても、CEOになっても、私が私でなくなるわけではない。私はずっと私だ。本来の私には本来の十全さが備わっている。セーターを編むことも、スキーも、名門校の受験も、CEOになることも、すべて私が一人の「普通の人」として身につけられる「能力」だ。事故で手足を失い、能力を失ったとしても、ある業界を離れたとしても、私が私でなくなるわけではない。本来の私は、もとより清らかなのだ。
能力も目標も、おのずとそうなるもので、気づかぬうちにそこへ到達した頃には、もう気にしていないことが多い。
(二)未来は未知、今を生きる
20代になったばかりの人が、なぜ30代、40代の課題で自分を苦しめなければならないのか。なぜ未来で今を苦しめるのか。30代、40代になったとき、どんな景色や境遇が待ち、どんな視野や見識を持っているかなど、わかるはずもない。
過去も未来も、人が頭の中で補って作り上げたものだ。現実に働きかけられるのは、今この瞬間だけだ。本質にあるのは、心の魔、小さな自我、執念に苦しんでいるということだ。運命を受け入れて従うのではなく、抗っている。
木に枝や節が生じるのは当たり前のことだ。別の分かれ道を美化せず、今いる道をしっかり歩こう。
想定外も急変もない。想定外のことを除けば、想定外はない。だから、あれこれ考える必要はない。目指している物事に突然の変化はなく、すべて一日一日の緩やかな変化だ。今を生き、静かに変化を待つ。量の変化が質の変化へとつながり、十分に蓄えたものがやがて力を発揮する。よいことが起こり、よい人が近づいてくるのを静かに待つ。
(三)過去にとらわれない
四、道家の核心は「時に安んじ、命に従う」こと
身はつながれていない舟のように、運命の川を漂い、自信を持ち、恐れず、水とともに生きる。
同じ河北省出身で、家は貧しく、ジェット・リーの『少林寺』を見て武術に夢中になり、武術学校に入り、その後は同じように北京へ出てきた。ワン・バオチャンは端役を演じ、ジャン・ウェイリーはジムのトレーナーをしていた。その後、ワン・バオチャンは映画やテレビの世界に進んで映画賞の主演男優賞を受賞する俳優となり、ジャン・ウェイリーはUFCに進んでチャンピオンベルトを手にした。この違いの背後にあるのは、努力の問題だろうか。違う。運や時運、巡り合わせだ。ジャン・ウェイリーは普通の人より努力している、と持ち出して普通の人を心理的に追い詰めることはいくらでもできる。だが、ジャン・ウェイリーとワン・バオチャンでは、どちらがより努力し、より正しく、より幸せなのか。人は比べるためにいるのではないし、努力が何より大切なわけでもない。誰もが努力している。ワン・バオチャンやジャン・ウェイリーの武術学校の同級生も、河北省の農村の同級生も、みな努力している。それ以上に巡り合わせによるところが大きい。努力を否定することは、投げやりになることではない。ワン・バオチャンやジャン・ウェイリーにとって、いっそう大切なのは、いわゆる努力よりも、運命に従い、よりよく自分であることだ。普通の人なら、なおさらそうだ。
五、『荘子・達生』より抜粋
心を正しく平らかにすれば、万物とともに新たに生きる。世事を捨てれば身体は疲れず、生への執着を忘れれば精気は損なわれない。身体が全うされ、精気が回復すれば、天と一つになる。
孔子が呂梁で山水を眺めていた。滝は二十数丈もの高さから落ち、激流のしぶきは四十里に及び、大きなスッポンやワニ、魚や亀さえも上流へ泳げなかった。そこに一人の男が泳いでいるのを見て、苦難に遭い、死のうとしているのだと思い、弟子たちに流れに沿って駆けつけ、助けるよう命じた。〔その男は水中に潜り〕数百歩も進んでから浮かび上がり、髪を振り乱し、歌を口ずさみながら岸辺まで泳いできた。
孔子は後を追って尋ねた。「私はあなたを幽霊だと思いましたが、よく見れば人でした。お尋ねしますが、泳ぐのに何か特別な方法があるのですか」
男は答えた。「私に特別な方法はありません。初めは慣れ親しんだ環境により、成長するにつれて習性となり、身についたのは自然に従ったからです。渦とともに沈み、湧き上がる流れとともに浮かび、水の勢いに従って、自分の意志を押し通しません。これが私の泳ぎ方です」
孔子は言った。「初めは慣れ親しんだ環境により、成長するにつれて習性となり、身についたのは自然に従ったからだとは、どういう意味ですか」
男は答えた。「私は高地に生まれ、高地に安んじていました。これが慣れ親しんだ環境ということです。水辺で育ち、水に安んじるようになりました。これが習性ということです。なぜそうなるのかわからないまま、そうなっている。これが自然に従うということです」
原文より抜粋:
滝は三十仞の高さから落ち、流れのしぶきは四十里に及んでいた。一人の男がその中を泳いでいた。数百歩進んでから水面に出て、髪を振り乱し、歌いながら岸の下を泳いでいた。
男は言った。「私は慣れ親しんだ環境から始まり、習性によって育ち、命によって成し遂げました。渦とともに入り、湧き上がる流れとともに出る。水の道に従い、自分の都合を持ち込みません」
孔子は言った。「慣れ親しんだ環境から始まり、習性によって育ち、命によって成し遂げるとは、どういうことですか」
男は言った。「私は丘に生まれて丘に安んじていました。これが慣れ親しんだ環境です。水辺で育って水に安んじるようになりました。これが習性です。自分でもなぜそうなるのかわからずに、そうなっている。これが命です」

六、自然の成り行きに任せる――私はおのずと動いていく。手綱を緩め、馬の行くままに任せる