マルクスと荘子の心理学 マルクス+荘子の哲学 · 誰もが本来、すべてを備えている

荘子シリーズ

本来の十全さの記録――楽しいとき、内から意欲が湧くとき、前向きなとき、エネルギーに満ちたとき、穏やかなときを日記に残そう

日記をつけて、自分が楽しく、内側から意欲が湧き、前向きで、活力に満ち、心穏やかであるときを記録することを勧める。

実はそれは、少しずつ禅定に入っているときでもある。誰にでも経験がある。

実はこれは、一人ひとりの本来の十全さの記録なのだ。本当の喜びは、実はどれも同じで、一種の「静けさに満ちた至上の喜び」なのだと気づくだろう。それこそが「禅定に入る、本来の自分である」という感覚だ。ただ、あまりに短く、あまりに「ありふれている」ために、自分で見過ごし、軽んじてきただけなのだ。

具体的に言えば、今の私は県の中心街のバスケットコートで、健康のために気楽にシュートを打ち、老いも若きも、子どもも含めたみんなと互いにパスを回しているだけで、すでに「本来の十全さ」と静けさ、至上の喜びを感じている。ほかには何も求めていない。

実はこれこそが、日記のいちばん大切な役割なのだ。

以前は、十年以上にわたって、日記を主にメモや雑念、自己批判の記録に使っていた。方針が間違っていたし、目覚めていなかったことの表れでもある。とはいえ、もう過ぎたことだ。

人に助言することは勧めないし、人が人に助言することはできないとも思っている。

この記事は一つの提案にすぎず、それ以上に、ある細部についての観察だ。人に修行を勧めたり、せき立てたりするものではなく、むしろ、人は自然に向上し、自ら癒えていくもので、その過程には自分自身でさえ「介入」できない、と言いたいのだ。

なお、この記事は『修行は見せかけの概念であり、努力すること自体が間違いで、自然の成り行きに任せればよい』の一節である。マルクスと荘子の心理学は、「修行」と「修行者としての小さな自我」を捨て去った。