旅への執着を手放す
極寒の地、灼熱の地、はるかに高い場所、深い場所。異国情緒、民族それぞれの特色。かつて輝かしい文明を築いた地、先進国。
思春期から青年期にかけて、数えきれないほど夢見た場所。
そうしてつくり上げられた美しい夢は、何をほのめかしているのか。そのためにかかるものは何か。代償は何か。それはしばしば、ひとつの消費でしかない。私は何を消費しているのか。自分の血と汗、そして命だ。
以前、旅を重視していたのは、どちらかといえば毒をもって毒を制するためだった。詩と遠い世界を頼りに、それまでの暮らしから抜け出し、命を見つめ直す。もっと有毒な、外に求めるあり方から抜け出し、一本の尺度で測る価値観から、多元的な価値観へと移るためだった。旅への執着に感謝している。私はもう、その段階を通り過ぎた。
旅は、何にもとらわれない自由を探しに行くものだが、旅の途中では、その自由を得られないことが多い。旅はくつろぎのためのものだが、欲も求めるものもなく、憂いも心配もないことこそ、くつろぎだ。くつろぐことは、そのまま仙人になるための修行でもある。何にもとらわれない自由の根源は、内に求めることにある。手に入りにくいものを尊ばない。
私は何を見に行き、何を求めるのか。
私が欲しいのは、ただ、のんびり過ごせる公園の自然、人の飾らない真・善・美、素朴で香り豊かなおいしい食材。それなら、私たちの県の町にも、みんなある。普段、時間とお金に余裕があるときに、住んでいる建物のすぐ下にある小さな公園をもっと散歩して、牛肉の火鍋をあと何度か食べられれば、それで十分だ。
神聖な雪山に沈む夕日も、私が自分の町で見る夕日も、同じように美しい。大自然の美しさは、どこにあっても変わらない。天人合一は、何より自分の心がどれほど静かであるかにかかっている。静まれば、自然の奏でる音が聞こえる。
ここの景色で満たされないのなら、どこでなら満たされるのか。
今、ここが彼岸でないのなら、いつまで探せば彼岸が見えるのか。
今、ここで悟らなければ、いつ悟るのか。
以前の記事
『普通の人はどうすれば本来の十全さとつながれるのか』
『大自然の癒やしに大量摂取はいらない』
『荘子と大自然が実存の危機を癒やす』
『「お金ができてから」という執着を手放す』