マルクスと荘子の心理学 マルクス+荘子の哲学 · 誰もが本来、すべてを備えている

荘子シリーズ

荘子――平常心こそ道

荘子・平常心こそ道

荘子・平常心こそ道
心に欠けがあれば、外に求め、貪り、怒り、迷い、業の障りにとらわれ、悪循環に陥る。
本来の私はもとより清らかであり、本来の十全さを備えている。無我、無執着で、外に求めず、欲することも求めることもなく、憂いも心配もない。
心はいつも動き、いつも穏やかではない。境遇も穏やかではなく、穏やかでないものを招き寄せる。無理に鎮めようとしても鎮まらず、力を入れれば、すでに道から外れる。無為であり、なす力もない。
天籟は静まり、人の心は穏やかではない。気が穴を吹き抜け、人籟は入り乱れる。道でさえ人を説き伏せられないのに、まして人の作為でどうしてできよう。大いなる道は言い表されず、大いなる弁論は言葉を発しない。人は流れる水を鏡とはせず、静止した水を鏡とする。人を説き伏せようとしない。
愚かさ、偽り、悪、醜さは、人の作為によるものではない。唯物史観から見れば、天災である。被害を受けて怒り荒ぶるのは、業の障りが広がることだ。草が風になびくように、平常心で順応する。心を穏やかにし、気を和らげ、自然に流れる。
境遇は心に従って変わる。心が平常なら、境遇も平常になる。平常であることが円満であり、自然に順応し、道と一つになる。
付記:

  1. 王安石:私は万巻の書を読み、天下の理をことごとく知った。知恵ある者はおのずと知っているが、愚かな者の誰がお前を信じよう。なんと不思議なことか、閑かに道に生きる人は、三句の囲いから飛び出している。ひとり自らの根本から悟り、ほかのところを起点とはしない。
  2. 2020年にマルクスと荘子へと歩み始めてからの数年間は、心も平常ではなく、求めるものも平常ではなく、執着するものも平常ではなく、平常ではないものを招き寄せてもいた。しかし、真にマルクスと荘子を学び実践するなら、必ず平常心へと向かう。 、他者を導くことへの焦り