マルクスと荘子の心理学 マルクス+荘子の哲学 · 誰もが本来、すべてを備えている

荘子シリーズ

ぶらぶら歩くことについて

ひとときぶらぶら歩けば、そのぶん気持ちいい。ずっとぶらぶら歩いていれば、ずっと気持ちいい。
ここ数年、私は、人は他人に助言などできないとよく書いてきた。また、唯一できる助言は、日記を書くことと、ぶらぶら歩くことだともよく言ってきた。簡単で、効果がある。今、有料のクライアントに出している唯一の「処方箋」も、この二つだけだ。
この二年ほどで、この二つも実は簡単ではなく、心の力と、それを可能にする条件が必要なのだと気づくようになった。
ぶらぶら歩くことには、瞑想や「修行」の要諦、荘子の哲学における本来の十全さと、つながり、天人合一の要諦が表れている。
ぶらぶら歩くとは、気の向くままであること。努力も、修行も、意図的な働きかけもない。
ぶらぶら歩くとは、許すこと。あらゆる否定的な感情を許す。あらゆる肯定的なつながりを許す。周囲で起こるすべてを許す。
ぶらぶら歩くとは、力を集めること。できることは多くなく、やるべきことも多くなく、エネルギーも多くない。そのエネルギーを、自分をいたわることに集める。戒・定・慧。
ぶらぶら歩くとは、馬の歩みに手綱を任せること、つながれていない舟であること。荘子が語る馬は、本来、のびのびと自由に駆けるものだが、伯楽に手綱をつけられ、鞭打たれ、自由を失う。
ぶらぶら歩くとは、無用の用。何事もなければそれだけで仙人、憂いも心配もなければそれが至上の楽しみだ。
ぶらぶら歩くとは、無能の能。ぶらぶら歩くことは、しばしば自分の無力さを痛感するところから始まるが、逍遥遊へと向かっていく。
ぶらぶら歩くとは、自然の成り行きに任せること。自性は自然に癒えていく。リビドーの兄貴は、おのずと肯定的なエネルギーとつながっていく。自分自身、大自然、社会、宇宙。無為にして治まる。
ぶらぶら歩くとは、大きなつながり。つながりは自然に生まれるもので、力を入れたとたんにずれてしまう。
ぶらぶら歩くとは、身体とつながること。身体の疲れ、痛み、弾むような喜び。身体には、私たちに伝えたいことがある。
ぶらぶら歩くとは、リビドーとつながること。気の向くままとは、リビドーの興に従うことだ。どこへ行くか、どんな感じがするか、何の歌を口ずさむか、すべて彼次第。思考や意識の混乱と役に立たなさに気づき、心の深いところにある直感と気づきの力を知る。
ぶらぶら歩くとは、過去の自分とつながること。過去の自分も、こうしてぶらぶら歩いていた。歳月の川に沿って、ぶらぶらと。
ぶらぶら歩くとは、自分を愛し、自分をよくいたわること。自分がもともと求めているものは、多くない。
ぶらぶら歩くとは、本来の十全さとつながること。修めることも、悟りを証することもない。
ぶらぶら歩くとは、自性とつながること。気づきの瞬間は、稲妻が暗雲を引き裂くかのようであり、自性の光が世界全体を照らす。坐忘、心斎、虚室生白。
ぶらぶら歩くとは、今この瞬間とつながること。今この瞬間の世界、現実の身の回り、周囲の土地と人々。
ぶらぶら歩くとは、今を生きること。小さなことをし、エネルギーを集め、大きくつながる。それが、今を生きることの要諦のすべてだ。
ぶらぶら歩くとは、彼岸とつながること。彼岸は今、ここにある。天人合一。
プロレタリアには、ぶらぶら歩く時間も場所もなく、資本の業の障りを受けている。小規模・零細の資本家はぶらぶら歩くことが多いが、業の障りが深く、つながりが乏しい。人間の疎外は、つながりの断絶と実存的危機の原因だ。これもまた、多くの若者が工場で働くよりも、電動バイクに乗って料理を配達することを選ぶ理由だ。この時代の労働者に与えられた、つかの間の自由なのである。
九分はどうにもならない思いだが、それでも一分は、このささやかな余地にある自由気ままさだ。これもまた、道家哲学における運命と自在の捉え方である。
以上、マルクス+荘子+心理学。