マルクスと荘子の心理学 マルクス+荘子の哲学 · 誰もが本来、すべてを備えている

荘子シリーズ

人生の漸進的な変化――頓悟と緩やかな変化

一、本来の十全さ、修行も悟りの証明も必要ない

私は荘子、馬祖禅、人間主義、マルクス主義が好きだが、その基礎はいずれもここにある。

どんな人も、初めから無条件に存在し、完全で、満ち足りている。「条件」はすべて外界の課題だ。

『普通の人はどうすれば本来の十全さを感じられるのか』『修行は偽の概念である』

二、頓悟、漸変

三、人は徐々に変わる。その変化のペースはコントロールできない

だからこそ、『修行は偽の概念である、力を入れた時点でずれる、自然に任せよう』、『暗い面を受け入れる』――業の障りを受け入れる。

業の障りは、内面の課題(トラウマ、防衛機制、小さな自我など)だけではなく、外的な業の障りも含む。たとえば、乱世が終わり、平穏が戻り、国が安泰で人々が安らかに暮らせること、経済の循環などだ。その背後にあるのは史的唯物論である。

四、他者が徐々に変わることを尊重し、理解する

『人はどうやって他者を変えるのか――それは自性の共鳴であり、与えたり、無理強いしたりすることではない』――他者を変えたいと強く願いすぎるのは、相手の泡をどうしても突き破りたくなるようなものだ。それは貪りであり、妄念だ。自分なら簡単に突き破って相手を変えられる、そうすれば相手はもう泡に煩わされずに済む、と思っている。だが、その泡は血豆なのだ。突けば痛み、驚き、防衛、反撃が生じる。

『種樹郭橐駝伝』――「根元を揺さぶって根の張り具合を確かめる。そうするうちに、木の本性は日ごとに損なわれていく。愛していると言っても、実際には害しているのだ。」

心理カウンセラーは、なおさら人が徐々に変わることを尊重し、理解する。彼らは認知を変えたり、気づきを高めたり、認知を与えたりするのではなく、受容と支え、自信と明るさの共鳴をもたらす。それによって人は温かさと支え、くつろぎと愛を感じ、エネルギーの反響が相談者の核を修復し、気づきが深まり、認知の一部も変化する。この過程では、さまざまな玄妙なものにも気づく。たとえば、本来の十全さをおぼろげに感じたり、変化の可能性を感じたりする。

五、頓悟は一つの転換点である

人生の無数の小さな転換点の中に、頓悟という転換点がある。いつものように、数えきれないほど繰り返してきた本来の十全さの感覚をまた感じたあと、脳もついにそのことに気づく。業の障りが自分のリビドーや意識をそれほど妨げなくなり、そのことを認識する。浅瀬で溺れかけて慌てている人の足が、底につくように。長年、暗雲に覆われていた人が、雲の切れ間に光を見るように。自性の光はもともと、どんな隙間にも差し込むものだった。ただ、暗雲の網が広大に張り巡らされ、目は粗くても光を漏らさなかったのだ。

自分は初めから完全で、美しい存在であり、ずっと宇宙の子であり、宇宙の美しさと一体なのだと気づく。

この時点はコントロールできない。だから修行は偽の概念なのだ。

人生に結婚や成人、病気からの回復という節目があるように、この節目は努力によって到達できるものでも、意図的に作れるものでもない。それは質的な変化が起こる転換点なのだ。

あるいは、本来の十全さを頓悟することは、心が本当の意味で成人することだとも言える。

六、「修行」をしなくても頓悟できるのか

修行をせず、荘子も禅宗も心理学も学んだことがなくても、癒やされることはできるのか。悟りを開くことはできるのか。明らかに、できる。十数億の中国の労働者や農民の中には、暮らしの中で自ら足ることを知り、天命を知る人が無数にいる。

「私はすでに至上の喜びに至った。ほかに求めるものはない」という節目がある。外に求めることをやめ、今に安んじ、貪り・怒り・愚かさという業の障りが少ない。それ自体が悟りなのだ。それ以降は、業の障りであれ、癒やしであれ、富貴であれ、困窮や栄達であれ、すべては外に現れた姿であり、ただの経験になる。

『新たな心理的欲求の階層――マズローの欲求階層の修正』

七、私たちがずっと外に求めているのは「方法・技術・認知」ではなく、「変化」である

そしてその変化は、微細で、唯物的で、深層のリビドーに関わり、システム全体に及ぶものだ。量的変化から質的変化へと至り、自然に脱落するものであり、井戸を掘り当てる最後のひとすくいの土、あるいはラクダの背を折る最後の一本の藁なのだ。

私たちはしばしば、あれこれ奔走した末に、少しだけ変わる。そして、その変化は奔走したおかげだと考える。だが、実際はそうではなく、奔走したことが変化を遅らせたのかもしれない。

たとえば、慢性病を抱える人が、不安に駆られてさまざまな民間薬を飲み、やがて少し良くなると、どれかの民間薬が効いたのだと思うようなものだ。実際には、そうした民間薬を飲まなければ、もう少し早く良くなっていたかもしれない。

以前の記事、『努力は偽の概念である』『修行は偽の概念である』

私たちの注意は、変化を求めることをやめ、受け入れ、現状に向き合うことへ向けるのが「いちばんよい」。

本来の自己は清浄であり、自然に癒やされていく。