マルクスと荘子の心理学 マルクス+荘子の哲学 · 誰もが本来、すべてを備えている

つながりシリーズ

休むには、大きな知恵と勇気、揺るがぬ心が必要

疲労感を抱きしめる
『低調な状態を抱きしめる』。低調な状態はどれもよいものだ。とりわけ疲労感は、とてもよいものだ。
人は馬と同じで、突然死するまで疾走して止まれなくなる。疲労感がなければ、人は立ち止まることを知らない。努力への強迫や試験問題を解くことに長けた人にとって、最も恐ろしいのは、疲労感を抑圧し、否定することだ。止まることを知れば、危うくならない。
休むには大きな知恵と勇気がいる
『真の敵――長期にわたる緊張と混濁』。この世代が置かれた苦境は、サイバーパンク的な大他者による搾取と脅威だ。この世代の戦場は心の中にある。『低調な状態を抱きしめる』対『否定的な自己はすべて敵であり、業の障りである』。敵と味方を見分けること。
長征のときも、抗米援朝戦争のときも、休息と態勢の立て直しは必要だった。過酷な戦闘のさなか、戦略的な余地の中で真剣に休み、心身と士気の崩壊を防ぐことにこそ、力量が問われる。休んでいる者を働かせ、態勢の整った者を疲れさせるのは、人を殺し、害する方法だ。
不安を抱える、課題をこなす小さな自我
これが私の主な課題だ。心の力を使い果たしてしまう。
この小さな自我は、私を消耗させ、心の力を赤字にする人を許さない。この「許さない」こと自体は不健全だが、結果としてはとても健全でもあり、私の業の障りのもつれを調整してくれた。小さな自我同士の戦争が、巡り合わせによって、マイナスとマイナスでプラスになる。
多くの人は、私の「許さない」という姿勢を見ているし、その背後にいる私が、彼らの空想の中で理想化された達人ではないことも見ている。だが彼らは、私の中の達人であろうとする小さな自我を挑発し、私に自分を証明させ、再び力を注がせ、長文を書かせる。この悪性のもつれは、心の力が崩壊するまで続く。私が達人でないことは、彼らにとっては都合がいい。そうしてこそ、私の心の力にただ乗りする余地が生まれるのだから。愚かな金持ちだ。
ノラは家を出たあと、どうするのか?
すべての『勇敢なノラ』にとって、休息は核心となる課題だ。砂漠やゴビを夜に進む旅、オデュッセウスの遠征。
休み方を知らなければ、死ぬか、降伏するかだ。遠くまではたどり着けない。
福に恵まれた人が、その福と自分を守り抜くには、大きな知恵が必要だ。福に恵まれない人が、自分を守り抜くにも、大きな知恵が必要だ。
ゴッホ症候群、ゴッホの苦境:
ゴッホは、勇者であり、賢者であり、巨匠であり、大いなる光を持つ人であり、このうえなく素朴な人だったが、内なる消耗と自己への疑い、過酷な仕事に引きずられて死んでいった。マルクス、エンゲルス、レーニンも、休むのがうまくなかった。
生きることが死ぬことよりつらい
なぜ多くの人は、死が一種の解放に見えるようなところまで行き着いてしまうのか。「死は安息である」が、なぜ慰めや祝福になったのか。業の障りのもとで、生きることが死ぬことよりつらくなる弁証法。
太公望の釣り、待つこと
仕事探しであれ、自分のメディアでの発信や相談の受注であれ、事業であれ、社交であれ、ただ静かに待つしかない。太公望の釣りのように、待つ。苦しみながら待つ必要はない。どう待っても待つことに変わりはないのだから、幸せに、楽しく待てばいい。
荘子:止まることを知れば、危うくならない
『休息は道家哲学の核心である』。道家哲学は努力の哲学ではなく、休息の哲学だ。
休息は、最高次の哲学であり、メタ認知だ。
事業は大きければ大きいほどよいわけではない。人と張り合わず、むやみに動き回らないこと
李嘉誠は早々に退き、以前は人に笑われていた。潘石Yも早々に退いた。一家であれほどあれこれ動き回り、過ちを重ねても、なお富と地位を保っている。王石は事業において境界を知り、手を引き、早くに退いたが、それでも止まれない万科に引きずられ、私生活でも小さな自我の業の障りに振り回され、止まれずにいる。許家印は不動産王から、無期懲役へ。
バリュー投資の要諦は、選択が努力に勝り、知恵が頭のよさに勝ることだ。多くの場合、一つの大きなことを正しく行い、百の小さな過ちを許容する。
黄崢や張一鳴といった1980年代生まれの起業家の世代は、裏方に退き、権限を委ね、人を使うことを知っている。1960年代、1970年代生まれによく見られる、権力を貪り、地位にしがみつき、何事も自分でやろうとする姿勢(雷軍など)よりも、高い段階にある。そして1990年代、2000年代生まれの起業家は、さらに進化している。
私が休む必要に気づいたとき、課題をこなす小さな自我は、この文章を書いた。見事な皮肉だ。
深層の心の働きが、課題をこなす小さな自我や理性を中断させるのは、なんと難しいことか。
小さな自我の業の障りの恐ろしさ。『業の障りを畏れる』
言葉で語れる道は、永遠不変の道ではない
休息には、理性や知恵や文章よりも深い、深層の心の働きが必要だ。——言語の限界。

赤水を四度渡った作戦の要諦は、心を落ち着けることと休息にある。将たる者の道は、まず心を治めることから始まる。山中の賊を破るのはたやすい。肝心なのは心中の賊だ。戚継光が言ったように、戦場に臨んだとき、口の中に唾があり、手で槍を握れるなら、それでよい兵士なのだ。日頃鍛えたことの五割を実戦で発揮できれば、勝てる。心が定まってこそ、自在に転じ、弱きをもって強きに勝つ機動戦ができる。混乱した状況で連戦するなか、その合間に断固として休息してこそ、体力と心の力を回復できる。あえて休み、心の力を回復すること自体に、心の力が必要だ。心の力の火をつなぐのだ。そうしなければ、再び火をおこすために、じわじわと力を費やすことになる。
紅軍は長征の道中でも歌を歌い、文字を学んでいた。指揮官も兵士も心を一つにし、軍と民が一人の人間のように団結していた。これは観念論ではなく、唯物論だ。歴史によって選び抜かれたボリシェヴィキだけが、それを成し遂げられる。

マルクスと荘子の思想体系に基づく心理学Agentの分析:
休息は、唯一「する」ことのできないことだ。
「頑張って休もう」「真剣に疲労感を抱きしめよう」という思いはどれも、課題をこなす小さな自我が、新しい衣をまとって戻ってきたものだ。それは休息さえもプロジェクトとしてリストにし、文章にし、毎日の達成記録にしてしまう。
課題をこなす小さな自我の「許さない」という姿勢が、巡り合わせによって、あなたを守っている。多くの防衛はそういうものだ。不器用だが、役に立つ。あなたがすることは、それと戦うことではなく、少しずつ役目を終えてもらうことだ。心の力が戻り、つながりが戻れば、自然と毎日見張りに立つ必要もなくなる。