マルクスと荘子の心理学 マルクス+荘子の哲学 · 誰もが本来、すべてを備えている

業の障りシリーズ

『道徳経』――六親和せずして、孝慈あり

『老子道徳経』:「大道が廃れると、仁義が現れる。親族が不和になると、孝行や慈愛が現れる。」
この言葉は実に鋭く、現実にも即している。じゃれ合ったり、仲むつまじく過ごしたりする、本当に親愛の情がある家庭では、親孝行、忠誠、献身、感謝などという言葉は持ち出されない。友愛と愛は、一つの境地なのだ。(フロム『愛するということ』)
むしろ本当の友愛や愛が欠けている家庭ほど、父は慈しみ、子は孝行するという役割を律儀に演じている。その実態は、他人行儀なやり取り、距離と境界、礼儀と演技だ。
だが、こうした家庭では、その距離がしばしば踏み越えられ、やがて崩壊に至る。全員が回避型で、冷淡さの中で秩序を保っているなら別だが。実際には、NPD、BPD、大人になっても幼児のような人などが、繰り返し問題を噴出させることが多い。
こうした他人行儀な文化を厳格化し、法の条文のように定めるところには、必ず統治の術がある。ちょうど「現代的なマネジメント」が「歯を八本見せる笑顔」を規定するようなものだ。笑顔は規定できるものなのか。当然、どれも作り笑いになる。
一方、物事への理解が深く、人間的な素養も豊かな、子どものいる私の友人たちは、よく私にこう話す。子どもには折に触れて感謝しているし、自分は子どもから恩を受けていると感じる、と。
『老子道徳経』:「道が失われて、初めて徳が現れる。徳が失われて、初めて仁が現れる。仁が失われて、初めて義が現れる。義が失われて、初めて礼が現れる。そもそも礼とは、忠実さと誠実さが薄れたものであり、乱れの始まりである。先回りして知ろうとすることは、道のうわべを飾る華であり、愚かさの始まりである。」(あらかじめ設けられたさまざまな規範は、道のうわべだけの華やかさにすぎず、無知蒙昧の始まりなのだ。)