平凡さを受け入れる
凡庸であることは、多くの人にとって直視しがたいことだ。1.外に何かを求めていると、凡庸さを受け入れられない。2.「周りの人」が凡庸さを受け入れられない。3.仕事探しでは凡庸さを受け入れられない。4.実存的な危機のなかでは凡庸さを受け入れられない。5.小さな自我のさまざまな執着、エゴが凡庸さを受け入れられない。以前、子どもや甥・姪の世代が平凡で凡庸であることを受け入れられなかったのも、内なる不安の投影だった。
一、受け入れる
自分の有限性を受け入れ、外から与えられる運命を受け入れ、自分の内にある一つひとつの真実、課題、暗い面を受け入れる。受け入れる度量があってこそ、人は大きくなれる。エゴが遠ざかり、外から与えられた物語が遠ざかっていく。
二、過去の凡庸な日々も、今振り返ればすべてがかけがえのないものだ
やはり、そこには本来の十全さが見える。それは、私がその日々のなかで生きていたからだ。別の記事『私たちはずっと、過去の自分と一緒に闘っている』。
三、過去の凡庸な人間関係へのわだかまりを手放す
考えてみれば、私はもともと普通で、凡庸とさえいえる人間で、特に注目に値するわけでもない。かつて付き合いのあった人たちの私に対する態度には、以前は貪りや怒り、迷い、恨みを抱いていた。けれど、考えてみれば、やはりエゴが顔を出していただけだ。平凡な人は孤独であり、凡庸な人は当然、なおさら孤独だ。私は彼らを「情を大切にしない」と嫌っていたが、それも「情」を頼りに関係をつなぎとめ、他人を縛ろうとする、凡庸なやり方だった。当然、長続きはしない。
凡庸であることはよいことではないが、恥ずべきことでもない。この世界は、普通の人、平凡な人に優しくない。無知な人が俗っぽさによって身を守らざるをえないのも、無理はない。ただ、戦術が戦略になり、俗っぽさが自分の核になってしまえば、おしまいだ。
人生の後半を、平凡ではあっても凡庸ではない生き方に向けて努力しようと思えるようになっただけでも、私もようやく目が開けたといえる。
四、凡庸さが私に安らぎをくれる
以前は、心が落ち着かないとき、自分が人より抜きん出ていた、優れていた、特別だった瞬間をいつも思い返して、自分を励ましていた。今は、自分があれほど凡庸だと思うと、心が安らぐ。凡庸さを受け入れることで、心が安らぐ。私は大自然のなかの平凡な一つのものであり、平凡な存在だ。自然にやって来て、自然に去っていく。
1.凡庸な人間でも、自ら心を乱さずにいれば、それが平凡であっても凡庸ではないということだ。
2.私は天にも、誰にも、自分自身にも、何の借りもない。
3.私には何の使命もない。意識して何かをする必要もない。私はただ、とても凡庸な人間で、ずっと運命に押し動かされてきた。心を静め、むやみにもがくのをやめてこそ、運命の川の流れを楽しめる。
4.私には何の罪もない。私は何一つ間違ったことをしていない。