プチブルと高級品について
若者が高級品や豪華な場所を目にして、卑屈な気持ちになるのは、ごく普通のことだ。そもそも高級品をデザインする目的は、零細なプロレタリアに卑屈さを感じさせることにあるからだ。卑屈さと無力感は、もともと零細な資産を持つ者やプロレタリアの基本的な感覚だ。高級品は、ただその心理を的確に突く攻撃なのだ。
少量の資本を破壊し、浪費するところを人に見せつけることは、一種の威嚇であり、誘惑でもある。いい車に乗っていれば、相手の態度もいくらか丁寧になる。それは権力の序列を示す宣言だ。わずかな資産を手にするにも、零細なプロレタリアが命を削って引き換えにしなければならない状況では、これは生命と負のエントロピーの破壊である。一種の血の供犠であり、エントロピーの供犠なのだ。デュルケームの言い方では、儀礼とは社会の存在を人に感じさせるものだ。高級品は、社会の構築と階級間の区分に関わっている。
高級品は必然的に、一人当たりの月収(茅台酒、アクセサリー、iPhone)、年収(バッグ)、40年分の収入(高級車、プチブル層の水準)を基準として価格が設定される。
零細な資産を持つ者が、資金もわずかしかないなかで、自分の血と汗で稼いだ金を供物として捧げ、儀礼に参加するのは、大資本家への盲目的な崇拝と模倣である。若いホワイトカラーが流行を追い、血と汗で稼いだ金を使って高価な海魚の刺身を食べる姿には、自分の血肉を食らうような、邪教めいた感じがある(かつての私自身のことを言っている)。
高級品は資本主義の儀礼であり、社会を構築する一つの営みだ。モーパッサンの『首飾り』は、高級品をめぐる古典的な作品である。