修行という概念はまやかし
修行は偽りの概念である
一、「その心を降伏させる」は偽りの概念である
心には本来の十全さがあり、心こそ仏であり、心は自ら癒える。「その心を降伏させる」という言い方では、まるで心が悪いものであるかのようだ。
では、なぜ多くの人は、心が自ら癒えると感じられないのか。深淵に引きずり込まれる感覚しかないのか。なぜ懸命に「修行し、心身を休め養って」も、自己治癒は訪れないか、ほんの少ししか得られないのか。
原因は業の障りに覆われていることにあり、心はずっと業の障りを取り除き続けている。この取り除いていく過程に、人は介入できるのだろうか。人は介入できると考え、それを「修行」と呼び、絶えず「懸命に修行」し、「精進」することもまた、悟ったつもりの迷いであり、「修行者のエゴの執着」である。
二、因果の逆転、原因の取り違え。「修行者のエゴ」による「カーゴ・カルト式修行」
物理学者ファインマンの「カーゴ・カルト科学」の話。
南太平洋の小島に、カーゴ・カルトを信奉する先住民たちが暮らしていた。第二次世界大戦中、連合軍の飛行機がこれらの島々を経由して物資を輸送していた。先住民たちは飛行機が着陸し、すばらしい品々が包みごとに降ろされるのを見た。戦争が終わると、飛行機は来なくなった。カーゴ・カルトを信奉する先住民たちは、あのすばらしかった日々を懐かしんだ。そこで、滑走路に似た道を造り、小さな茅葺きの小屋を建てた。小屋の中には一人が座り、頭に二つのヤシ殻をくくりつけてヘッドホンに見立て、ヤシ殻に竹を挿してアンテナに見立てた。その人は管制塔の誘導員をまねていた。そして、飛行機が着陸して物資を運んでくるのを待った。何もかも正しく行っているように見えたが、飛行機は来なかった。
ファインマンのこの事例は、まさに教育学や心理学に見られる、悟ったつもりの迷いを批判したものだ(ただし、あの講演ではそこまで深く掘り下げていない)。
本来の自己の「高エネルギー状態」があるからこそ、人はエゴに気づき、高いところからエゴや感情や思考を見下ろせるようになり、新たな認識を得て、「古典」の書物に共感し、「静坐や瞑想」の際によりよい体験をする。古典を読み、静坐し、瞑想することで「高エネルギー状態」に入るのではない。人は「高エネルギー状態」を「自分が努力して修行すること」で呼び寄せたと勘違いし、新たな執着を生む。
努力は役に立たない。理屈の上で理解したばかりの人が、懸命に木をこすって火を起こそうとする。力を入れれば入れるほど、こじれていく。修行者のエゴが執着し続けることで、自分をさらに脇道へと追いやる。力を込めた時点でずれる。むしろ修行とは、あらゆる努力とエゴを取り去り、本来の自己が自ら癒えるに任せることだ。
三、「修行、心の変化の段階」という問題
苦痛を抱えた平凡な普通の人が、ある一瞬に、本来の自己が明るく輝く至善の完人、聖人になるのか。それとも段階があるのか。その段階はどう分けられるのか。
人はその段階に介入できるのか。どんな方法を使い、どんな努力をするのか。実践で成果を収めたあれほど多くの修行者や、道を得た高僧、大徳でさえ至善に達していないのは、修行法の問題なのか。努力が足りないのか。
「本来の自己がエゴに気づく」ために、はたして努力が必要なのか。エゴに気づいていないのは、単に努力していないからなのか。
本来の十全さこそ最終的な答えだと私たちは考えており、しかも誰もが本来の十全さを感じたことがある。それなのに、なぜ本来の十全さはいつまでたっても業の障りを取り除き、塵を払い尽くし、暗雲を追い散らしてくれないのか。
四、心の変化の四段階
第一段階、どん底と深淵の段階
どん底、さらには深淵で暮らし、業の障りが空も太陽も覆い隠し、暗闇に閉ざされている。習慣に流され、のめり込み、取りつかれるといった、目覚めていない段階。苦痛、感情、夢幻泡影、貪瞋痴、執着、エゴにまとわりつかれている。さまざまなエゴや状態のあいだを「切れ目なく切り替わり」、決して目覚めない「夢の中の夢」にいる。
第二段階、どん底で「雲間から日が差す」段階
1.雲間から日が差す
内なる本来の自己のさまざまな働きと外からの偶然によって、人は「定」、すなわち本来の自己の永遠の静けさ、天人合一を知る。暗雲の隙間から差す日光のようなものだ。定は一度も人から離れていない。ただ、人が初めて「光」と「温もり」を大切にするようになり、その光に照らされて、世界の景色がまったく違って見えるようになったのだ。これが「心を見て本性を明らかにする」ということだ。
光は再び現れるのか。どうすれば再び現れるのか。人はそれが自分の「努力や行動」によるものだと考え、「修行」について整理し、理論を学び始め、絶えず「儀式や作法で光を呼び寄せる」ようになる。仏教における戒から定へ至ることや、坐禅で呼吸を数えること。道家が荘子の「坐忘・心斎、虚室に白を生ず」を、結果から「手段」へと変えてしまうこと。スピリチュアル系のマインドフルネス瞑想。心理カウンセラーが勧める日光浴、運動、友人づくり。SNSの心にしみる言葉が勧める公園散歩や読書など。本質的には、どれも「引き算」をし、業の障りによる妨げを減らし続ければ、雲が晴れて日が差すということだ。
これらの助言は、確かに「効く」。ときには「儀式や作法」の後で、実際に光を「呼び寄せられる」からだ。さらには、それが「木をこすって火を起こすこと」だと思うようになる。「修行者のエゴ」は「儀式や作法」にのめり込み始める。何十年も坐禅をする人もいれば、何十年も瞑想する人もいて、それを自分の「秘訣」だと考える。しかし実際には、しばしば「エレベーター内の腕立て伏せ式成功論」なのだ(エレベーターの中で腕立て伏せやスクワットや拍手をしている人が、腕立て伏せなどの手段によって高層階に上がれたと考えること)。禅宗でいう、瓦を磨いて鏡にしようとする試みだ。
「修行者」のエゴは、しばしば自分を監視し、心理的に支配しようともする。自分は定を探し求めていたのであって、「あら探し」に来たのではないことを、すでに忘れている。
2.日が出たら布団を干す
定に入る確率が高くなり、「日が出る」ことが増えるにつれて、人は日が出たときに布団を干し始める。自分が古い執着を「次々と消化している」と「観察」する。するとますます「懸命に木をこすって火を起こした成果が出ている」ように見え、自分から働きかけて「日の出」を勝ち取ったように思えてくる。
第三段階、山の中腹における「安全ロープ、泳者用フロート、心臓ペースメーカー」の段階
山の中腹では、多くの業の障りから徐々に離れ、より多くの光と景色が見えるようになる。
人はより自然体になり、定に入りやすくなり、定や目覚めの状態にいることが日常的になる。
登山時の安全ロープ、自然の水域で泳ぐときの泳者用フロート、心臓のペースメーカーのようなものだ。何かおかしいと気づくと、いつでも人を支え、いつでも「目覚めさせて」くれる。深淵に落ち込ませない。
あるいは、定は巧みにリードしてくれる上手なダンスのパートナーに似ている。自分がたまに気を散らしたり、間違えたりしても、優しく導き、再びマインドフルに楽しめる状態へと戻してくれる。
第四段階、山頂でわが心が明るく輝く段階
山頂に登ってみると、そこは一面の平原で、いたるところに日差しと温もりがある。ここではマッチも、木をこすって火を起こすことも必要ない。これが人間の「正常な」姿だ。フォイエルバッハとマルクスのいう「人間の類的本質」である。
本来の自己の「定」の光は絶えず存在しているが、業の障りによって遮られている。
修行に努力はいらない。意図して修行する必要はない。むしろ、あらゆるエゴ、努力、意図がなくなったとき、気づきが自然に人を、高いエネルギーのもとで状況に気づく状態へと導いていく。
(私は大した境地にはいないので、後の段階は単なる想像だ)
五、段階と過程はコントロールできるのか。自由で主体的に見えて、実はすべて運命の中にある
ここまでのいわゆる「段階」論は、自由で主体的であるかのように見え、一人の人間が自分の「努力」によって絶えず「よくなっていく」かのように見える。
だが、この変化のペース、本来の自己がエゴを溶かしていくペースは、本当に「私」がコントロールできるものなのか。
業の障りが深い人もいれば、浅い人もいる。それは自分で決められることなのか。
業の障りはすべて不幸であり、「自分」とは関係がない。——この定理は受け入れやすいが、そこからさらに深い、さらに「受け入れにくい」推論が生まれる。無数の人々、衆生が業の障りにとらわれて悟れず、悪人にさえなってしまう。もちろんそれは「努力」のためではないが、「自ら進んで堕落した」のか。それは業の障りという不幸なのだ。悪人は生まれつき悪いのか、それとも後から悪くなったのか。つまり、生まれつき不幸なのか、それとも後から不幸になったのか。
悟りが早く、目覚めが早く、境地が高い人もいる。それは才能、努力、賢さ、悟る力によるものなのか。運のよさだけが唯一の説明だ。
業の障りの深さは不幸の度合いであり、「悟り」の進み具合は幸運の度合いである。そうでなければ、完全に悟っていないのは、単に努力が足りないからなのか。この過程を加速する力があるのなら、なぜ努力して、三年、一年、半年、あるいはその日のうちに至善、完璧にまで加速しないのか。
業の障りにかかわる運は、不平等なのだ。人生はもともと不平等だ。障害のある人々は、障害のない人々と比べて平等だろうか。障害があっても富や幸福を得る妨げにはならず、修行の妨げにもならない、と言う人がいる。業の障りの深さの不平等は、障害をめぐる問題以上に不平等だ。そう、人には障害よりも深刻な症状があるのに、それを知らない(症状そのものが「知らない」ことなのだ)。どれほど深刻かがわかるだろう。
「心の変化の段階」は自分でコントロールできないと受け入れ、「修行者のエゴ」の執着に気づけば、「他人を変える」「他人を啓く」ことへの執着も手放すようになる。一人ひとりに、その人自身の「運命」のペースがある。
六、本来の十全さとは、人はいつも力を尽くしており、現在の進み具合とペースこそ、自分が全力を尽くした結果のペースだということ
ただ運が悪いだけなのだ。
このことについては、これまでにもたくさん書いてきた。たとえば『本来の十全さ』や『努力についての特集討論』などの特集記事だ。
この記事では、小さな一点だけを書く。
自分が楽しく、内側から意欲が湧き、前向きで、エネルギーが高く、穏やかであるときのことを、日記に記録するよう勧めたい。
実はこれも、少しずつ定に入っていく過程だ。誰もが経験したことがある。
実はこれは、一人ひとりの本来の十全さの記録なのだ。すると、本当の喜びは実はすべて「同じ」であり、一種の「静かな至福」だとわかるだろう。それが「定に入る、本来の自己」の感覚だ。ただ、あまりに短く、あまりに「ありふれている」ために、自分で見過ごし、軽く見てしまっていたのだ。
具体的に言えば、今の私は県の中心街にあるバスケットコートで、体をいたわりながらの気軽なゲームに加わってシュートを打ち、老いも若きもみんなで互いにパスを回しているだけで、すでに「本来の十全さ」、静けさ、至福を感じている。ほかには何も求めていない。
実はこれこそが、日記の最も大切な役割だ。以前は十年以上にわたり、日記を主に覚え書きや雑念や自己批判の記録に使っていた。方針を誤っていたし、目覚めていなかったことの表れだ。とはいえ、もう過ぎたことだ。
七、道家の「運命を信じること」、人間の有限性と、複雑でコントロールできない運命
1.「人事に従い、天命に安んずる」。「人事を尽くす」ではない。「尽くす」という言葉には、まだ「努力と諦めきれなさ」がある。自分は自然に反応し、「自分」はただ「自分の振る舞い」に従っているだけだ。中学・高校時代を振り返れば、私たちはみな自然の成り行きで「やって」いただけだった。髪を梁につるし、錐で腿を刺すように勉強に励んだことも、不安におののいたことも、わざと馬鹿にした態度を取ったことも、学校をさぼってネットカフェに行ったことも、天才を自任したことも。
2.「運命を信じること」は「運命は決まっている」ということではない。運命は絶えず変わっており、人の力では変えられない。運命が決まっていないからこそ、多くの人は苦しむ。複雑で予測しにくいというわけではないからこそ、ますます「定められてはいない」ように見え、まるで「人の力は天に勝つ」かのようで、「儀式や作法で太陽を求めること」や「エレベーター内の腕立て伏せ式成功論」のように思えてしまう。
3.運命を信じることは「運命を甘受すること」ではない。未来は未知であり、そもそも甘受すべき運命などない。
4.運命を信じる人は、なおさら「運命を占う」ことはない。運命は占いでわかるものではない。
5.運命はコントロールできず、つかみ取ることもできない。「運命をつかめ」などというのは、くそジジイがセクハラをするときのせりふだ。
八、生命は川のように自然に流れる
生命は川のように自然に流れ、本来の自己は泳ぐ魚のように、ただ静かにその川の中で生きている。時に安んじ、流れに従い、何の憂いもない。心は自然に物事を行い、生命は自然に前へ流れていく。しかも、外界との相互作用にかかわることには、運命の不確実さも、受け入れて調整することもかかわってくる。いつだって、生命と心が自然に流れているのだ。そこに努力という二文字は一度もなかった。「努力」とは、エゴが自分に感動し、天の功績を横取りしているだけだ。
人は実のところ動物や植物と変わらず、何かを「変える」ことなどできない。アリは食料を蓄え、ミツバチは蜜を集め、ツバメは巣を作り、犬や猫は相手を求め、クジャクは羽を広げ、ライオンは傷をなめ、植物は日に向かい、大木は根を張り、ハエトリグサは虫を捕る。人もほかの生き物と同じように、自然界、生物圏で、生物的、物理的、歴史的な法則に従って生き、そして死ぬ。人間の思考は自分を「過大評価」し、自分が神であるかのように、何でもでき、不死であり、石を黄金に変え、世界を、歴史を、他人を「変えられる」と勘違いしている。
荘子は、人は泳ぐ魚や蝶や木のように生きるのだと説いた。それは、宇宙が配した生と命を受け入れることだ。
生命はもともと、外にあるコントロールできないもの、偶然性に支配されている。一本の木のように、育つかどうか、どんな姿に育つかは運命次第だ。それでも、その木が自分を不自由だと感じずにいることは妨げられないし、その木の本来の十全さ、完全さ、生物としての平等、天人合一も妨げられない。木にはエゴがなく、ほかの木が高く、美しく育っていることを妬まない。
九、自由はいったいどこにあるのか
では、自由は存在するのか。いったいどこにあるのか。人は永遠に物理法則と有限の生命に制約される。人はもともと宇宙のちっぽけな一部であり、大自然のちっぽけな一部なのだ。人が大自然を改造するとは、大自然が自分自身を改造することだ。
人のいう自由、能力、人の力は天に勝つという考えは、しばしばエゴの貪瞋痴にすぎない。
「non-non-free」、すなわち「不自由でないこと」が一つの自由なのだ。自由とは、不自由がある程度まで減った後の、本来の自己の感覚である。喜びが、不愉快さがある程度まで減った後の本来の自己の感覚であり、静けさが、落ち着かなさがある程度まで減った後の本来の自己の感覚であるのと同じだ。「道を為す者は日に損ず」「虚室に白を生ず」。私たちが「幸運にも」より多く運命に従えるほど、「エゴの業の障り」は少なくなり、「不自由」を感じることも少なくなる。
十、修行しない、努力しないとは、業の障りや状態の浮き沈みを受け入れ、運命を受け入れ、追い求めないこと
「修行者のエゴ」は状態の浮き沈みを受け入れず、今の凡庸さ、業の障り、思いどおりにならないこと、苦痛を受け入れない。「儀式や作法」に執着し、想像の中のすばらしい未来に執着する。それ自体が業の障りなのだ。『新たなエゴの誕生:修行者のエゴ』を参照。
「今、私が十分に楽しくなく、十分に定に入れないのは、修養への努力が足りず、しかも私の修行法や心の師がまだ十分に高度ではないからだ」。——なんと恐ろしい執着だろう。ただ運が悪いだけなのに。
努力=エゴに取りつかれること。これを「努力のエゴ」と呼ぶ。とてもよく見られる、恐ろしいエゴだ。以前、『努力についての特集討論』ですでに努力を体系的に批判した。「修行者」のエゴは「努力のエゴ」の一つの変種である。
「修行」を意識するようになってから、私はいつも「努力して」修行していた。「修行者のエゴ」と「努力のエゴ」は、いつも私自身を監視し、心理的に支配していた。「努力のエゴ」を完全に殺して初めて、私は努力をきっぱりとやめ、すっかり自然体になった。
内に求めるというのは偽りの概念だ。欲も求めもなく、自然に任せる。
あるネットユーザーが、「どうすれば一流になれるのか。努力、継続、選択、才能のどれによるのか。普通の人はどうすれば現状を打破できるのか」と質問した。——普通の人は、たいてい普通の人であり、やみくもに一流などを追い求める必要はない。平凡であることは凡庸であることではない。本来の十全さがあり、誰の魂も平等であり、静けさ、幸福、喜びは一流かどうかとは関係がない。もちろん、この状態も努力で到達できるものではなく、運次第だ。この状態に達すれば、「普通の人」であっても、しばしば「一流」でもある。時に安んじ、命に従い、自然に任せる。
十一、運命を受け入れ、自然に任せる
究極の答えは、人は究極の答えを見つけられないということだ。もうどんな答えも探さず、彼岸は今、この場所にあり、ただ静かに生きている。
何もかも運命だ。与えられたものを生き、自然に任せる。
この記事は消極的だと思われるだろうか。——荘子本人でさえ消極的だと思われているのだから、私などに何ができよう。誤解を受け入れ、自然に任せる。
付記:
一、努力というテーマについての補足:
前の記事『努力についての特集討論:早く努力をやめよう』
A.では、心の専門医の「努力」や「介入」はどう考えるのか
心の専門医は庭師であり、外科医ではない。庭師は、バラが咲くのはすべて自分の手柄だと言えるだろうか。
心の専門医は、凡庸さと業の障りの中にいる人を、「明るく完全な」人へと「質的に変化」させられるだろうか。
心の専門医自身も、その「知識」や「療法」も、すべて歴史的発展の結果であり、社会の有機的な構成要素である。当事者の「本来の自己と業の障り」のせめぎ合いには、その人自身のペースがある。その人が自ら心の専門医を訪ねることも、心の専門医がどれほどの役割を果たせるかも、すべてそのペースの一部だ。その人はもともと少しよくなっていたのに、リストラで職を失い、また悪くなったとする。それは心の専門医が決められることなのか。
個人の意志は、いったいいつこのペースに介入できるのだろうか。
B.科学者はずっと努力しているのでは?
科学者はずっと「努力奮闘」しているからこそ、科学は進歩し続け、知識はますます発達し、生産力と人類の運命には大きな変化が起こり続け、人間社会の文明の水準も高まり続けているのではないか、と問う人がいる。そのとおりだ。
だが、オウムは言葉を話し、犬や猫も人に合わせることを覚え、みな暮らしがよくなっている。それらも努力しているのか。それとも、ただ流れに従っているだけなのか。
そもそも、人類の歴史は個人の意志が介入できるものなのか。
地球上の60億のプロレタリアはどのように暮らしているのか。それを誰が変えられるのか。プロレタリアは「努力」していないのか。科学者の努力を強調するのは、何を強調しているのか。
科学者自身の暮らしはどうなのか。業の障りはどうなのか。史的唯物論は、なおさら運命なのだ。
C.地方の受験秀才が極貧の農村から北京の大学に合格し、昇進・昇給してCEOになる。これは天に逆らって運命を変えたということではないのか?
では、なぜ建国以前の数千年間には、それを実現できた地方の受験秀才はほとんどいなかったのに、1990年以降には大勢が実現できるようになったのか。これは歴史の過程であり、個人の努力ではない。実現できなかったほかの人たちは、本当に単に、天に逆らって運命を変える努力をしなかっただけなのか。運命を前にした臆病者で愚か者なのか。では、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの何十億もの子どもたちは、なぜ実現できないのか。
まさに「刻苦努力」を迷信するこうした人々が、子どもを狂ったように競争へ駆り立て、子どもを崩壊させている。こうした子どもたちは運がよいのだろうか。こうした子どもたちが心理的な問題や、よくない学校、仕事の中で沈んでいくとき、それは単に親世代ほど努力していないからなのか。これは彼らの業の障りだ。何もかも運命なのだ。
二世代の心理的な問題は、どちらも運命と時代の一部であり、癒えるかどうかも運命次第だ。多くの母親は、この二世代を癒そうと「努力」しているのではないか。さらに多くの母親は、自分でも気づかず、ただ苦しんでいて、問題がわからない。無数の人が、知らず知らずのうちに苦しめられている。
目覚めさせるというのは偽りの概念だ。まるで一流の革命家、教育家、心理学者たちが試みたこともないかのようではないか。史的唯物論と運命なのだ。
ああ、そうだ。こうしたエリートたちは40歳でリストラされて失業したとき、なぜ「努力して運命を変え」ないのか。なぜ「社会環境に文句を言わず、もっと自分の問題を探しなさい」とならないのか。
あるネットユーザーが、大学生に現状を打破する方法はあるか、と尋ねた。——打破できないものだからこそ、行き詰まりと呼ぶのだ。誰もが力を尽くしている。何もかも運命だ。凡庸さを受け入れ、すべてを受け入れ、受け入れられないことも受け入れ、自然に任せる。「努力して何かをする」という言い方は、まるでその人がまだ十分に努力していないかのようだ。
D.悪人は努力して変わるべきではないのか
では、自分が悪人であり、周囲の人たちをさんざんな目に遭わせていると気づいたら、私は積極的に努力して変わるべきではないのか。
こうした人でも、変わらなければならないと気づき、実際に変わることが少なくない。それこそが、人の本来の十全さ、本来の自己の強さを示している。自己治癒力の強さを示しているのだ。
しかも、業の障りがとりわけ深く重い人は、そもそも自分に問題があり、変わる必要があることに気づけない。この「意識」こそ、本来の自己の気づきなのだ。
悟るか悟らないかは、人が人に簡単に介入できることなのか。人類には何千年も法律、裁判官、教師が存在してきたが、介入できたのか。
生産力と生産関係の進歩に伴って、戦争、飢饉、人肉食、凶悪犯罪はいずれも大幅に減少した。これは歴史が作用しているのだ。
E.では、農民蜂起や反乱、革命は、努力して運命を変えたということではないのか
そうではない。蜂起も革命も、時代の産物だ。個人の努力は、これまで一度も作用したことがない。蜂起や革命は歴史を変えているのか。それとも、それ自体が歴史の産物なのか。
では、人と人との不平等は克服しなくてよく、ただ受け身で受け入れるだけでよいのか。——意外に思うかもしれないが、本当にそうなのだ。
では、マルクス・レーニン主義は間違っているのか。——マルクス・レーニン主義は科学理論であり、私有制がもたらす不平等がいかに必然的に革命をもたらすかを科学的に説明し、歴史の法則を説明し、歴史にどう従うかを人に教える。あらゆる不平等をなくしたり、歴史の変化を加速したりする魔法ではない。
人の背の高さや体形は、永遠に異なる。マルクス主義が関心を寄せるのは、背の高さや体形が、人による人の隷属をもたらさないことだ。
F.減量は「努力」と関係がない
減量では、表面的には、私は多くのことを克服し、それから運動などのつらいことをたくさんやり遂げたように見える。実際には、エゴの貪瞋痴や、暴飲暴食、夜更かしといった業の障りが弱まり、心身がもともと望んでいた運動や、腹七分目のあっさりした食事ができるようになったのだ。
すべては本来の自己の働きであり、しかもちょうど本来の自己が業の障りに打ち勝てて、外的な条件も、あっさりした食事や十分な睡眠を取ることを許してくれたからなのだ。
減量は、努力とは最も関係のないことだ。業の障りに対抗する力がなく、「努力して減量する」ほど落ち込み、意気消沈し、太ってしまう人をよく見かける。
G.恐ろしいのは、「努力」で利益を得ること
暗黙のルールに迎合し、詐欺を働き、だまし、投機し、裏切って、利益を得る。
「私」が心の本能を「努力して克服」し、嫌悪感をこらえて嫌いな人たちに迎合し、違法なことやグレーなことをして、金を稼いだ。これは業の障りが深まったということだ。負のエゴが力を発揮しており、社会の疎外がその負のエゴに報酬を与え、強化しているのだ。
多くの業界や組織では、悪貨が良貨を駆逐している。業の障りが共鳴している。典型がヒトラーとナチスだ。
本来の自己がこうした作用に対抗できなければ、生命は絶え間ない堕落となる。堕落は生命そのものが向かう方向ではない。外からの疎外であり、不幸な運命なのだ。