マルクスと荘子の心理学 マルクス+荘子の哲学 · 誰もが本来、すべてを備えている

荘子シリーズ

一、実際に今を生きる

一、実際に今を生きる
今を生きることは、手段ではなく、状態だ。誰もが経験したことがある。誰もが天人合一、静けさ、至上の喜びを経験したことがあるように。中国の数千万人の在学生、十数億人、その一人ひとりの自性の光は、それぞれの人生の困難のなかで、黙々と働いている。
(一)今を見つめ、記録する
1.許す、受け入れる。
あらゆる苦痛と感情を許す。
つらさ、平凡さ、調子の低さ、境地の低さ、逃避、先延ばしを許す。絶望(息苦しさ、恐怖、不安)、いたたまれなさ(困窮、狼狽、もがき、自分の誤りを認めること)、迷い(平凡さ、孤独)を許す。
人生で向き合う唯一の困難は、結局、今この瞬間のつらさにほかならない。つらさ→自己卑下→自己愛/自己攻撃というのは、乳児のころから続く業の障りの連鎖反応だ。
フロム:幸福とは、人が現実を受け入れる能力、現実の世界と本当の自分を体験し、それらと誠実に関わる能力とも定義できる。
今この瞬間のつらさこそが唯一の問題であり、そのつらさを抱えきれず、気づけないことが、業の障りの唯一の源だ。
すべてを許すとき、許せないものはなくなる。
もう悔やまない。そのときの自分は精いっぱいやった。過去のその瞬間を受け入れる。今この瞬間や自分を拒絶せず、避けない。
苦痛を許し、見つめ、気づき、記録する。日記を書き、自分の日常や状態の曲線を記録する。活力に満ちたときや静かなときの自分から、自性がずっとそこにあることを見て取る。生活が黒と赤の溶岩のようであり、泥のなかの蓮の花のようであることを見て取る。
今この瞬間の中心的な課題、苦痛、困難、傷。
自分とのつながりを持ち、自分をいたわり、自分に感謝する。理性と感性の両方から方向を見いだす。
個人の問題の多くは社会の問題だ。自己攻撃や萎縮、退行を少し減らそう。
無明の業火
人はよく「名も知れぬ業火」を感じる。つらいのに、それに気づき、言葉にすることが難しい。なじみのある暗雲、崩れ落ちる感覚。「また始まった」と、静けさから苦痛へと戻っていく。心理学では、見つめるだけでも和らぐとされる。
暗い面から逃げる
自分の感情を許さず、自分の暗い面から逃げることは、自分とのつながりを断つことだ。リビドーのなかのある部分の業の障りが、別の部分の業の障りから逃げている。自負が劣等感から逃げる。「修行者としての小さな自我」「気づく人としての小さな自我」が業の障りから逃げ、コントロールによって制御不能から逃げる。
だが、逃避もまた前向きな仕組みであり、自己防衛だ。自負は、劣等感によって崩壊し、解離するのを防ぐためにある。迎合は生き延びるためであり、コントロールは安全のためにある。回避はとてもよい仕組みだが、健やかであるためには、再び十分に心を開き、受け入れることと組み合わせる必要がある。白血病と同じで、白血球は本来よいものなのだ。
二重に苦しむ
自然に生じる苦痛や途方に暮れる感覚。業の障りは、その自然さを受け入れられない。私たちは苦しいうえに、自分の苦しみを受け入れられない。傷口がかゆくて、つい掻いてしまうように、二重に苦しむのだ。
『荘子・雑篇・譲王』で、中山の公子牟は言う。「それは分かっていても、まだ自分に打ち勝てないのです」。瞻子は言う。「自分に打ち勝てないのなら、そのまま従えばよい。そうすれば精神が損なわれることなどあろうか。自分に打ち勝てないのに、無理に従うまいとすることを、二重の傷という。二重に傷ついた者は、長生きする者の仲間には入れない」。
苦痛に安んじることも、運命に安んじること
私が引き受けているのは、私の運命に固有の苦痛であり、その背景には、人類のこの歴史段階に共通する苦痛がある。仏教でいう行苦だ。苦痛は運命の一部だが、私の神性は、いつも私を地獄の泥沼から引っ張り出してくれる。
マルクス、エンゲルス、彭徳懐、荘子、蘇軾も、それぞれの運命のなかの苦痛に安んじなければならなかった。
『絶観論』:
問う。「修行を始めたばかりの者が、不意にある因縁に遭い、他人から危害を加えられそうになったとき、どう対処すれば道にかなうのでしょうか」。
答える。「避けられるなら避け、避けられないなら成り行きに任せ、耐えられるなら耐えよ。耐えられないなら泣けばよい」。
問う。「泣くのであれば、我見を持つ他の人と何が違うのでしょうか」。
答える。「杵で鐘を打てば、その音が自然に出るのと同じだ。どうしてそこに必ず自我があるというのか。もし無理やり心を固く押さえつけ、歯を食いしばり、声を殺して耐えるなら、それこそ大きな大きな自我を存続させることになる」。
問う。「聖人は武器にも傷つかず、苦しみにも屈せず、色にも影響されず、心も動かないと聞きました。これはどういう意味でしょうか」。
答える。「あらゆる法に自我がないと悟れば、声を出すことも出さないことも、動くことも動かないことも、すべて道理にかない、何の妨げもない」。
2.今この瞬間を拒み、嫌悪し、今から解離しているそのときこそが、最もつらいどん底だ
受け入れられず、抵抗し、拒み、今から解離しているこの瞬間は、すでにどん底であり、業の障りが最も重く、最もなすすべのないときだ。
子どもが学校に行きたくないと泣き叫ぶその瞬間は、一日のうちで最もつらい瞬間だ。だが、それもいずれ過ぎていく。
人生の難しさは、糞溜めに身を投じたり、坑道へ這い入ったりすることにある。そして、それは人類の大多数にとって、来る日も来る日も続く日常だ。青い惑星の上で疎外され、呪われた人類。私有制という、史的唯物論の次元にある業の障り。人類の自性は、なんと強く、明るいことだろう。それでも来る日も来る日も、業の障りと糞溜めに耐え、それらを照らし続けている。
3.この瞬間、受け入れろと自分を追い込まない。
今を拒み、嫌悪し、今や自分から解離することも、自然に生じることの一部であり、抗うことはできない。
自分をコントロールし、すぐに受け入れろと強いることもまた、許さないことだ。
制御できないということは、抱えきれないということだ。無理にコントロールしようとしても、それは妄念にすぎない。
4.今を生きられない自分を許し、許せないことを許す
制御できないことに気づき、それを許すことも、抱え入れることだ。これは暗い面を受け入れ、自分と和解するための最後の課題だ。
牛頭禅の『絶観論』では、こう問う。「何を心と呼ぶのでしょうか。どうすれば心を安らかにできるのでしょうか」。答える。「わざわざ心を立てる必要も、無理に安らかにする必要もない。それを安らかであると言えるのだ」。
許すことは気づきの一部であり、それ自体、努力してできるものではない。気づいていない自分に気づく。目覚めて初めて、夢を見ていたと分かる。
今を生きることへの執着を打ち破る
人は、今ここに在ること、マインドフルネス瞑想、修行、今を生きること、大家になること、悟りを開くことに執着する。多くの場合、それもなお「修行者としての小さな自我」であり、自分についてすべてを知り、何でもでき、すべてをコントロールしたいと思っている。
『壇経』は、修行への執着を打ち破る(清浄への妄念、清浄への執着)。「人の本性は本来清らかだが、妄念によって真如が覆い隠されている。ただ妄想がなければ、本性はおのずと清らかである。心を起こして清浄に執着すれば、かえって清浄への妄念が生じる。妄には定まった場所がなく、執着すること自体が妄なのだ。清浄には形がないのに、清浄の姿を立てて、これが修行の功夫だと言う。このような見方をする者は、自分の本性を妨げ、かえって清浄に縛られる」。
今を生きられない自分を許したとき、かえって私は今を生きることができた
以前、どん底にいた時期の日記を読むと、胸を打たれる。そこには、今を生きていた何人もの自分がいる。当時の自分は、今を生きていない自分を嫌っていたのだけれど。本来の自分が自然に在ることを見届ける。
5.私たちはいつも、結局は受け入れている。だから自然に任せる
私たちは結局、そこから抜け出していく。結局、いつも受け入れているし、結局、運命から離れたことなど一度もない。学校に行きたくない子どもも、結局は学校に行くように。過去の、もっと弱かった自分も、結局は今より困難で激しい瞬間を受け入れてきた。
私たちはいずれ糞溜めや坑道に正面から向き合う。命は自らの道を歩む。糞を食らわなければならないときは、噛むな。食らう前の抵抗こそ、最もつらい段階だ。
私たちはいずれ、受け入れられず、許せないこの段階を、自然に抜け出していく。
事故で障害を負った無数の人々の実例が示すのは、普通の人の心の回復力や、適応し調整する力は、自分の予想を上回るということだ。
『馬祖語録』:「あなた自身がもともと金剛定なのだから、さらに意識して心を凝らし、禅定を得ようとする必要はない」。
6.日記を書くことは、本当に霊と通じ、仏を拝むための通路だ
気づきの度合いが異なる無数の瞬間を記録し、その後の瞬間に参照できるようにする。気づきのない時期に、気づきのある時期の自分、活力に満ちた自分、自性、仏性と対話する。心こそが仏だ。これが、人が本当に霊と通じ、仏を拝むための通路なのだ。
これは、人類にとって数少ない本当の「修行」の技法なのかもしれない。
努力というのは見せかけの概念だ。私たちにとって、日記を書くという技能を身につけるのはなかなか難しい。習慣は力を入れれば築けるものではなく、それ自体が深いつながりなのだ。
なぜ人は日記を書かないのか、あるいは書いてもこのような効果が得られないのか。その意識、能力(心の力、苦痛や暗い面を避けてしまうこと)、習慣がないからだ。何度も「気づき」の状態にあるときに、日記の不思議な力に気づいて、初めて日記を書き続けられるようになる。それは成長の結果であり、出発点ではない。
7.『小さな自我の小さな今 VS 本来の自分の真の今』
業の障りが軽く、小さな自我が少ないほど、小さな今にとらわれることも少なくなる。たとえば、さまざまな社会的時計や、社会による規律づけだ。もちろん、境遇は心がつくるのだから、小さな自我が切迫して感じる今もまた、「客観的」な今ではある(境遇は心がつくるというのは、観念論ではなく唯物論だ)。だが、それは狭い今だ。本来の自分が真の今とつながることは、力、温かさ、癒やしの源となる。天人合一。

(二)今できる小さなことをする
小さなことをする。その要点は「する」ことではなく、小ささにある。巨大で劇的な変化に執着しない。
今に安住する。自分をいたわる。調整し、固め、充実させ、高める。
a.気軽で小さな癒やし:
すべては自然に変わっていく。巨大な変化より、小さな変化を期待し、大切にする。巨大な変化への期待は、しばしば貪・瞋・痴だ。
ぶらぶら歩く、公園を散策する、日記を書く。苦痛と光の両面を記録する。
『ぶらぶら歩くことについて』:ぶらぶら歩くとは、気の向くままにすることだ。努力も、修行も、意図的な作為もない。ぶらぶら歩くとは、許すことだ。あらゆる否定的な感情を許す。あらゆる肯定的なつながりを許す。ぶらぶら歩くとは、今を生きること、小さなことをすること、エネルギーをまとめること、大きくつながることであり、今を生きることの要点がすべてそこにある。
仕事や副業の小さな作業を一つする、個人発信メディアのアカウントを登録する、家を掃除するなど。小さな変化は大きな変化の一環/一段階だ。量的変化から質的変化へ。
最近、調子がよくなり、心の余力が生まれる→糖分を控え、健康的な食生活にしようと決める→さらに全面的に調子がよくなる。
b.エネルギーをまとめる
エネルギーをまとめること、瞑想、マインドフルネスの反対は、散逸、雑念、落ち着きのなさだ。断捨離、課題の分離、ミニマリズム、清静無為。
多くの人は、今の課題ではないことへの不安に浸っているが、その根にはやはり今の課題がある。
多くの場合、何をするかより、何をしないかのほうが重要だ。たとえば、AIへの不安や政治をめぐる抑うつを感じるときに、ソーシャルメディアを断つこと。
エネルギーをまとめる具体的な場面をいくつか挙げると、物事はひそかに進めてこそ成就する、黙々と耕すこと。実を重んじ、虚に走らず、言葉と思考を過度に活発にしないこと。
浮ついて乱れるのではなく、しっかりとまとまること。自分をよく世話すること、つまりエネルギーをまとめる+自分とのつながり。エネルギーがとても低いときは、黙ってぶらぶら歩くこと。
エネルギーをまとめ、正しい道を歩み、自信を持つことは、今を生き、自分や世界とつながることだ。
正しい道に集中してこそ、道を得た者には多くの助けが集まり、その道の上で志を同じくする人と出会える。雑多な人や雑念、雑多な道のなかで自分を見失わない。
バリュー投資とは、投機や愚かさを収めることであり、自分、心の力、エネルギーの価値を大切にすることだ。マルクス主義は、社会科学や在野の哲学をまとめる。心理学、荘子、悟り、本来の十全さは、心をまとめる。その後は、自然に従い、天賦の才に従い、運命に従う。

(三)つながり
人の自性の光は、自然につながりを結ぶ。力んでも役に立たない。だから問題は、なぜつながりが途切れたのか、どのような業の障りに覆い隠されているのかということだ。
五つの要素とのつながりの状態を観察する。学業、仕事、自分(身体、心)、他者。
自分とのつながり:身体(感覚、運動、食事、睡眠)、心。過去の自分(傷、精いっぱいやってきたこと)、今の自分とのつながり。『自分とどうつながるか』:自分をよく世話することが、一つの鍵だ。エネルギーをまとめる+自分とのつながり。
自性とのつながり:自性を見つめ、過去の自分とつながる。最近、自分の自性の光(深い知恵)が現れた事例。
正念とのつながり:天人合一。感謝し、恵みを大切にする。光、真善美。
今とのつながり:今の中心的な課題、小さな変化、今の自分、自性、深層の心/リビドー、感覚。
学業や仕事とのつながり:核となる、条件に基づく自信や、活力に満ちた流れとつながり、仕事をこなせるという感覚や職業上の自信を取り戻す。個人発信メディアに文章を書くことも、自信やつながりの感覚を高める。
他者とのつながり:やみくもな社交ではなく、個人発信メディア、よい本を読むこと、付き合いを選ぶこと。関係を捉え直し、身近な人のよさを認め、感謝する。
人民/社会/歴史/世界/大自然/宇宙とのつながり。
マルクス:人間の本質は、あらゆる社会関係の総体である。
以上のことは、私たち皆が経験してきた。喜び、静けさ、活力に満ちた状態は、誰もが毎日経験している。ただ、短く、見過ごされているだけだ。
つながりは無条件であり、ずっとそこにある。業の障りが軽いほど、今に安住し、その感覚も深くなる。
『つながり VS もつれ:世界との関係』

つながりと実事求是
実事求是とは、今、自分、他者とよくつながっていることの表れだ。
自分とうまくつながっていなければ、解離し、迷う。
他者とうまくつながっていなければ、空想や貪・瞋・痴に陥り、今ある縁の境界を越える。
今とうまくつながっていなければ、抵抗し、焦りいら立つ。

二、今に安住する
手段ではなく、状態だ。
忙しいときは忙しく、暇なときは暇で、眠るときは眠り、苦しいときは苦しむ。今に安住し、運命に安住し、自分に安住する。外に求めず、自分を嫌悪せず、自分の自性の光とつながる。どんな人や出来事に出会うかについては、運命の采配に安んじる。まず静まることのできる者こそが、本当に今に安住できる。
1.判断基準
判断基準:自分を慰め、自分を抱きとめる→安全で安らかになる→自信を持ち、のびのびする→心地よく満ち足りる。
『臨済録』:「あなたの一念の心が、自ら束縛を解き、どこにいても解脱できる。これが観音三昧の法である」。
今に安住していないときは、今や今の自分とのつながりが断たれている。自己の崩壊、解離。つらさ、恐慌、絶望、迷い。
今が心地よくなく、安らかでないと、逃げて外に求め、過去や未来にとらわれ、過去や未来についても心地よく感じられない。
今に安住し、今が心地よければ、未来や過去についても、より心地よく、楽観的に感じられる。
2.世のなかで生きることの要点の一つは、激流や濁流のなかで力を抜くこと
今この瞬間には、激しい動揺や困難、自分をのみ込み、埋没させる感情や落ち込みが、しばしば数多くある。緊張や取り乱しは役に立たない。
落ち着き、ゆとりを持ち、力を抜き、しなやかに動き、流れに従う。
根本にあるのは、やはり安住しているかどうか、大きな自信だ。
3.どの普通の人も、今に安住することを経験している
静けさと至上の喜び、本来の十全さ、今に安住すること。こうした究極の彼岸や複雑な概念を、誰もがよく経験している。ただ、その時間が短く、つながりを持てていないだけだ。これは本来の十全さの一つの側面だ。あるいは、「修行者としての小さな自我」が、方法を見つけてコントロールし、今すぐ到達することに執着している。
悟りの基準は、「本来の十全さ」を深く感じることだ。四六時中それを感じ、自性の光のなかにいる必要はない。
「今を生きられない」という今に安住することも、一つの安住だ。
4.雇われて働くことを例にすると:
人はしばしば、転職や不満を繰り返し、完璧な仕事や上司がいると空想する。あるいは、何か高尚な哲学を悟って達人や大家になること、何かの資格を取ること、詩や遠い土地、ある条件を達成することによって、自分を救おうとする。
転職や不満、逃れることが間違いだというのではない。人は後になって、最終的な「解脱」と超越とは、ある転職の後の、ある瞬間に、ようやく今に安んじることなのだと知る。他人から見ても、自分から見ても、平凡な仕事や時間であり、日常も苦痛に満ち、陰の面も陽の面もあるけれど。この心の安らぐところが、私の故郷なのだ。
その安らぎのなかで、私たちは落ち着き、成長し、進化する。そして、これまでの道のりに散らばっていた、自性の光が輝く瞬間の断片もつながっていく。仕事は次の段階に入り、自分をより理解して受け入れ、仕事と生活の釣り合いを取り、自分を世話することを覚える。そして、25歳から29歳になったことに気づく。どの普通の働き手も、黙々と、何らかのリズムを見つけてきた。
私たちは、自分がずっと黙々と高まり、進化してきたこと、深いところにある自性がずっと黙々と働いてきたことに気づく。自性に本来の十全さが備わっているとは、思いもよらなかった。自性があらゆる法を生み出せるとは、思いもよらなかった。私たちはただ、それをより理解するようになる。過去の自分に感謝し、今の自分に感謝する。
(四)運命に安んじる
時勢や運命は、人の力で推し量ったり、抗ったりできるものではない。人事はすでに尽くし、天命にもすでに安んじている。どの瞬間にも精いっぱいやったのだから、どの瞬間にも安住する。
列子:農民は時節に合わせ、商人は利益へと向かい、職人は技術を追い、仕官する者は権勢を追う。これは勢いがそうさせるのだ。だが、農民には洪水や干ばつがあり、商人には損得があり、職人には成否があり、仕官する者には登用されることもされないこともある。これは命がそうさせるのだ。
今に従う
般若、清浄、出世間、彼岸に執着していては、彼岸には至れない。本来の十全さがあり、修めるものも証するものもなく、今こそが彼岸だ。
今あるすべての苦痛と業の障りに従い、今あるすべての静けさと喜びにも従い、時代と運命の流れに従う。
荘子の八つの「無」:無我・無執、無能・無為、無欲・無求、無憂・無慮。
『列子』で舜は言う。「私の身体が私のものではないのなら、誰のものなのでしょうか」。答える。「それは天地から託された形なのだ。生命はお前のものではなく、天地から託された調和なのだ。性命はお前のものではなく、天地から託された自然の流れなのだ。子や孫はお前のものではなく、天地から託された変化なのだ。だから、歩いてもどこへ行くのかを知らず、とどまっても何を支えにしているのかを知らず、食べてもなぜそうするのかを知らない。天地の活発な動きは、気の働きなのだ。それをどうして所有できようか」。
『荘子、君子が困窮にあっても道を守ることを論じる』:「飢えや渇き、寒さや暑さに襲われ、困窮や停滞に阻まれて行き詰まることは、天地の運行であり、万物の尽きることのない運動の発現である。つまり、天地万物の運動や変化と調和すればよいのだ。人の臣下となれば、君主の命に背こうとはしない。臣下の道を守ることについてさえそうであるなら、まして天道に対しては、なおさらではないか」。
今を生きることは、未来とつながる最良の方法だ。
未来を空想し、未来にとらわれることと、未来とつながることは違う。