マルクスと荘子の心理学 マルクス+荘子の哲学 · 誰もが本来、すべてを備えている

荘子シリーズ

修行という概念はまやかし――努力すること自体が誤り、自然に任せよう

一、「その心を降伏させる」は偽の概念である
心には本来の十全さがあり、心はそのまま仏であり、心は自ら癒える。「その心を降伏させる」という言い方では、まるで心が悪いものであるかのようだ。
では、なぜ多くの人は、心が自ら癒えると感じられないのか。深淵に引きずり込まれる感覚しかないのか。なぜ一生懸命「修行し、心身を休めて」も、自己治癒を待てず、あるいはほんのわずかな癒ししか得られないのか。
それは業の障りに覆われているからであり、心はずっと業の障りを取り除き続けている。この除去の過程に、人は介入できるのだろうか。人が介入できると考え、それを「修行」と呼び、絶えず「修行に励み」「精進する」のもまた、悟りをめぐる迷いであり、「修行者の小さな自我の執念」である。

二、因果の逆転、原因の取り違え。「修行者の小さな自我」による「カーゴ・カルト修行」
物理学者ファインマンの「カーゴ・カルト科学」の話。
南太平洋の小島に、カーゴ・カルトを信仰する先住民たちが暮らしていた。第二次世界大戦中、連合軍の飛行機はこれらの島を物資輸送の中継地にしていた。先住民たちは、飛行機が着陸し、すばらしい品々の包みを次々に降ろすのを見た。戦争が終わると、飛行機は来なくなった。カーゴ・カルトの先住民たちは、よかった昔の日々を懐かしんだ。そこで、滑走路に似た道を造り、小さな草葺きの小屋を建てた。小屋の中には一人の人間が座り、頭に二つのヤシの殻をくくりつけてヘッドホンに見立て、その殻に竹を挿してアンテナに見立てた。この人がまねていたのは、管制塔の誘導員だった。そして彼らは、飛行機が着陸し、物資を運んでくるのを待った。何もかも正しくやっているように見えたが、飛行機はやって来なかった。
ファインマンのこの事例は、まさに教育学や心理学に見られる一部の思い違いを批判したものだ(ただし、その講演ではそこまで深く踏み込んでいない)。
本来の自己の「エネルギーの高い状態」が、人に小さな自我を気づかせ、高いところから小さな自我や感情、思考を見渡せるようにし、新たな認識をもたらし、「古典」とされる本に共感させ、「静坐や瞑想」の際によい体験をさせるのである。古典を読み、静坐や瞑想をすることで、「エネルギーの高い状態」に入るのではない。人は「エネルギーの高い状態」を「自分が努力して修行する」ことで呼び寄せたのだと思い込み、新たな執念を生み出す。
努力は役に立たない。理屈の上で理解したばかりの人は、懸命に木をこすって火を起こそうとし、力むほどにこじれていく。修行者の小さな自我が執念を持ち続けることで、ますます道を外れる。力を入れた時点でずれる。修行とはむしろ、あらゆる努力と小さな自我を取り去り、本来の自己が自ら癒えるに任せることだ。

三、「修行、心の変化の段階」という問題
苦しみを抱えた平凡な普通の人が、ある一瞬にして、本来の自己が光り輝く至善の完全な人、聖人へと変わるのか。それとも、そこには段階があるのか。その段階はどう区分すればよいのか。
人はその段階に介入できるのか。どんな方法を使い、どんな努力をするのか。実践修行で成果を上げた多くの修行者や、道を得た高僧、徳の高い人々でさえ至善に至っていないのは、修行法の問題なのか。努力が足りないのか。
「本来の自己が小さな自我に気づく」ことに、そもそも努力が必要なのか。小さな自我に気づいていないのは、単に努力していないからなのか。
本来の十全さこそが最終的な答えだと私たちが考え、しかも誰もが本来の十全さを感じたことがあるのなら、なぜ本来の十全さはいつまでも業の障りを取り除かず、塵を払い尽くし、暗雲を吹き散らしてくれないのか。

四、心の変化の四段階
第一段階、どん底の深淵の段階
どん底、さらには深淵で暮らし、業の障りが空も太陽も覆い隠し、暗闇に閉ざされている。惰性、耽溺、取りつかれた状態など、目覚めていない段階。苦痛、感情、夢幻や泡影、貪り・怒り・愚かさ、執念、小さな自我にまとわりつかれている。さまざまな小さな自我と状態の間を「切れ目なく切り替わり」、決して目覚めない「夢の中の夢」にいる。
第二段階、どん底で「雲の切れ間から日が差す」段階
1.雲の切れ間から日が差す
内なる本来の自己のさまざまな働きと、外からの偶然によって、人は「定」、すなわち本来の自己の永遠の静けさ、天人合一を知る。暗雲の切れ間から差す日光のようなものだ。定は一度も人から遠ざかったことがない。ただ、人が初めて「光」や「温もり」を大切にするようになり、その光に照らされると、世界の景色がまったく違って見える。これが「心を見て、本性を明らかにする」ということだ。
光は再び現れるのか。どうすれば再び現れるのか。人はそれを自分の「努力や行動」によるものだと考え、「修行」について経験をまとめ、理論を学び始め、絶えず「儀式を行って光を呼び寄せ」始める。仏教の、戒から定へと入ること、坐禅を組んで呼吸を数えること。道家が荘子の「坐忘と心斎、虚室に白を生ず」を、結果から「手段」にしてしまうこと。スピリチュアル系のマインドフルネス瞑想。心理カウンセラーが勧める日光浴、運動、友人づくり。SNSの心のサプリ的な投稿が勧める公園の散歩や読書など。本質的にはすべて「引き算をする」ことであり、業の障りによる妨げを絶えず減らせば、雲が晴れて日が差すということだ。
こうした助言は確かに「役に立つ」。というのも、ときには「儀式を行った」後、実際に光を「呼び寄せられる」ことがあるからだ。さらには、それを「木をこすって火を起こすこと」だと考えるようになる。「修行者の小さな自我」は「儀式を行うこと」にのめり込み始める。何十年も坐禅をする人もいれば、何十年も瞑想する人もいて、それが自分の「秘訣」だと考える。だが、実際にはしばしば「エレベーター腕立て伏せ式成功論」にすぎない(エレベーターの中で腕立て伏せやスクワット、拍手をする人が、腕立て伏せなどの手段によって高い階に上がれたのだと考えること)。禅宗でいう、瓦を「磨いて鏡にしようとする」ことだ。
「修行者」の小さな自我はまた、しばしば自分を監視し、心理的に追い詰める。定を探し求めていたはずなのに、「あら探し」をしに来たのではないことを、すでに忘れている。
2.日が昇ったら布団を干す
定に入る確率が高まり、「日の出」が増えるにつれて、人は日が昇ったときに布団を干し始める。自分が古い執念を「絶えず消化している」ことを「観察」する。するとますます、「努力して木をこすって火を起こすことに効果がある」ように、自ら働きかけて「日の出」を手に入れたように見えてくる。
第三段階、山腹の「安全ロープ、スイムブイ、心臓ペースメーカー」の段階
山腹では、多くの業の障りからも次第に離れ、より多くの光と景色が見えてくる。
人はより自然体になり、定に入りやすくなり、日常的に定や目覚めの状態にあるようになる。
岩登りの安全ロープ、自然の水域で泳ぐときに引いて泳ぐスイムブイ、心臓のペースメーカーのようなものだ。何かおかしいと気づいたとき、いつでも人を支え、いつでも人を「目覚めさせて」くれる。深淵に落ちることはない。
あるいは、定は熟練したリード役のダンスパートナーに似ている。こちらがときどき気を散らしたり、間違えたりしても、その人が優しく導き、再び今に意識を向けて楽しめるようにしてくれる。
第四段階、山頂でわが心が光り輝く段階
山頂に登ってみると、そこは一面の平原で、至るところに陽光と温もりがある。ここではマッチも、木をこすって火を起こすことも必要ない。これが人類の「正常な」姿だ。フォイエルバッハとマルクスがいう「人間の類的本質」である。
本来の自己の「定」の光は、絶えず存在しているが、業の障りに覆われている。
修行に努力は必要ない。意図的に修行する必要もない。むしろ、あらゆる小さな自我、努力、作為がなくなったとき、気づきは自然に、人をエネルギーの高い状況での気づきへと導いていく。
(私の境地は高くないので、後の段階については単なる想像だ)

五、段階と過程は制御できるのか。自由で能動的に見えて、実際にはすべて運命のうちにある
先ほどの「段階」論は、まるで自由で能動的なもののように、一人の人間が自分の「努力」によって絶えず「よくなっていく」かのように見える。
だが、この変化のリズム、本来の自己が小さな自我を溶かしていくリズムは、本当に「私」が掌握できるものなのか。
業の障りが深い人も、浅い人もいる。それは自分で決められることなのか。
業の障りはすべて不幸であり、「自分」とは関係がない。——この定理は受け入れやすいが、そこからさらに深い、より「受け入れにくい」推論が生じる。無数の人々、衆生が業の障りに縛られて悟れず、さらには悪人になる。それはもちろん「努力」のせいではないが、「自ら進んで堕落した」ということなのか。業の障りという不幸なのだ。悪人は生まれつき悪いのか、それとも後から悪くなるのか。つまり、生まれつき不幸なのか、それとも後から不幸になるのか。
早く悟り、早く目覚め、高い境地に達する人がいる。それは才能、努力、頭のよさ、悟る力によるものなのか。運だけが唯一の説明だ。
業の障りの程度は不幸の程度であり、「悟り」の進み具合は幸運の程度だ。そうでなければ、完全に悟れていないのは、ただ努力が足りないからなのか。この過程を速める能力があるのなら、なぜ努力して、三年、一年、半年、あるいはその日のうちに至善と完全に達するまで速めないのか。
業の障りをめぐる運は、不平等なのだ。人生はもともと不平等だ。障害のある人々は、障害のない人々と比べて平等なのか。障害があっても裕福で幸せになることや、修行することに影響はない、と言う人もいる。業の障りの深さの不平等は、障害をめぐる問題以上に不平等だ。そう、人には障害よりも深刻な症状があるのに、それを知らないことがある(症状そのものが「知らない」ことなのだ)。どれほど深刻かがわかる。
「心の変化の段階」は自分で掌握できないと受け入れ、「修行者の小さな自我」の執念に気づけば、「他人を変える」「他人を啓く」ことへの執念も手放すようになる。誰にでも、自分の「運命」のリズムがある。

六、本来の十全さとは、人はいつでも力を尽くしており、今の進み具合とリズムこそが、自分が全力を尽くしたリズムだということ
ただ、運が悪いだけだ。
この点については、これまでにも『本来の十全さ』や『努力についての特集討論』などの特集記事で、たくさん書いてきた。
この記事では、小さな点を一つだけ書く。
自分が楽しく、内から意欲が湧き、前向きで、エネルギーが高く、穏やかであるときのことを、日記に記録するのを勧める。
これは実は、少しずつ定に入っていく過程でもある。誰にでも経験がある。
これは実は、一人ひとりの本来の十全さの記録なのだ。そうすると、本当の喜びは実はすべて「同じ」であり、一種の「静かな至福」であるとわかる。それが「定に入る、本来の自己」の感覚だ。ただ、あまりにも短く、あまりにも「当たり前」なので、自分で見過ごし、軽んじてしまっていた。
具体的に言うと、今の私は県の中心街のバスケットボールコートで、無理をせず楽しむゲームに参加してシュートを打ち、年配者から中年、若者、少年まで、みんなと互いにパスを出し合うだけで、すでに「本来の十全さ」、静けさ、至福を感じている。ほかには何も求めない。
実はこれが、日記の最も大切な役割なのだ。以前の十数年は、日記を主に覚え書きや雑念、自己批判の記録に使っていた。方針が間違っていたし、目覚めていなかったことの表れだ。ただ、もう過ぎたことだ。

七、道家の「命を信じること」、人の有限性と運命の複雑さ、制御不可能性
1.「人事に従い、天命に安んじる」。「人事を尽くす」ではない。「尽くす」という字には、まだ「努力と諦めきれなさ」がある。自分は自然の成り行きで反応する。「自分」はただ「自分の行い」に従うだけだ。中学・高校時代を振り返れば、私たちはみな、ただ自然の成り行きで「やった」だけだった。髪を梁に結び、錐で股を刺してまで勉強することも、不安におびえることも、気にも留めないふりをすることも、学校をさぼってネットカフェへ行くことも、自分を天才だと思い込むことも。
2.「命を信じる」とは「運命があらかじめ決まっている」ということではない。運命は絶えず変わっており、人の力では変えられない。運命が決まっていないからこそ、多くの人は苦しむ。複雑で予測しにくいわけではないからこそ、なおさら「決まってはいない」ように見え、まるで「人の意志は天に勝てる」かのように、「儀式で太陽を呼び寄せること」や「エレベーター腕立て伏せ式成功論」のように見えてしまう。
3.命を信じることは「運命を諦めて受け入れる」ことではない。未来は未知なのだから、そもそも諦めて受け入れるべき定まった運命などない。
4.命を信じることは、ましてや「運命を占う」ことでもない。運命は占いで割り出せない。
5.運命は制御できず、掌握できない。「運命をつかめ」とは、セクハラをするおっさんの台詞だ。

八、生命は川のように自然に流れる
生命は川のように自然に流れており、本来の自己は泳ぐ魚のように、ただ静かにこの川の中で生き、時に安んじ、流れに従い、憂いも心配もない。心は自然に物事を行い、生命は自然に前へ流れていく。そして、外界とのやり取りに関わるものには、運命の不確実性も関わり、受け入れることや調整することも関わってくる。いつでも、生命と心は自然に流れている。そこに「努力」という二文字は一度もなかった。「努力」とは、小さな自我が自分に感動し、天の功績を自分の手柄にしているだけだ。
人は実のところ、動物や植物と違いはなく、何かを「変える」ことはできない。アリは食料を蓄え、ハチは蜜をため、ツバメは巣を作り、犬や猫は求愛し、クジャクは羽を広げ、ライオンは傷をなめ、植物は太陽へ向かい、大樹は根を張り、ハエトリグサは虫を捕らえる。人はほかの生物と同じように、自然界、生物圏の中で、生物的、物理的、歴史的な法則に従って生き、そして死ぬ。人類の思考は自分を「過大評価」し、自分を神だと思い込み、全能で、不死で、石を金に変えることができ、世界を、歴史を、他人を「変えられる」と誤解している。
荘子は、人が泳ぐ魚や蝶、樹木のように生きることを説いた。それは、宇宙が与えた生命と運命を受け入れることだ。
生命はもともと、外部の制御できないもの、偶然性に支配されている。一本の木と同じで、育つことができるか、どんな姿に育つかは運命次第だ。だが、それによって木が自分を不自由だと感じるわけではなく、その本来の十全さ、完全性、生物としての平等、天人合一が妨げられるわけでもない。木には小さな自我がなく、ほかの木が背が高いことや、美しく育っていることを妬まない。

九、自由はいったいどこにあるのか
では、自由は存在するのか。いったいどこにあるのか。人は永遠に物理法則と有限な生命の制約を受ける。人はもともと宇宙の小さな一部であり、大自然の小さな一部だ。人が大自然を改造するとは、大自然が自分自身を改造することだ。
人のいう自由、能力、人の意志は天に勝てるという考えは、しばしば小さな自我の貪り・怒り・愚かさでしかない。
「non-non-free」、つまり「不自由ではない」ことも、一つの自由だ。自由とは、不自由がある程度まで減った後の、本来の自己の感覚だ。喜びが、喜べなさがある程度まで減った後の感覚であり、静けさが、静かでなさがある程度まで減った後の、本来の自己の感覚であるのと同じだ。「道を為す者は日に損す」「虚室に白を生ず」。私たちが「幸運にも」より多く運命に従えるなら、「小さな自我の業の障り」はそれだけ少なくなり、「不自由」を感じることも少なくなる。

十、修行せず、努力しないとは、業の障りや状態の浮き沈みを受け入れ、運命を受け入れ、追い求めないこと
「修行者の小さな自我」は状態の浮き沈みを受け入れず、今このときの平凡さ、業の障り、不調、苦痛を受け入れない。「儀式を行うこと」に執着し、想像の中のすばらしい未来に執着する。これ自体が業の障りだ。『新たな小さな自我の誕生:修行者の小さな自我』を参照。
「今の私が十分に幸せではなく、十分に定に入れていないのは、修行の努力が足りず、しかも私の修行法や心の導き手がまだ十分に高度ではないからだ」。——なんと恐ろしい執念だろう。ただ、運が悪いだけなのだ。
努力=小さな自我が取りつかれた状態であり、これを「努力する小さな自我」と呼ぶ。非常によくある、恐ろしい小さな自我だ。以前、『努力についての特集討論』で、すでに努力を体系的に批判した。「修行者」の小さな自我は、「努力する小さな自我」の一つの変種だ。
「修行」を意識するようになってから、私はいつも「努力して」修行していた。「修行者の小さな自我」と「努力する小さな自我」が、いつも自分を監視し、心理的に追い詰めていた。「努力する小さな自我」を完全に殺したとき、私は努力を完全にやめ、すっかり自然のままになった。
内に求めるというのは偽の概念だ。欲することも求めることもなく、自然に任せる。
あるネットユーザーがこう質問した。「どうすれば一流になれるのか。努力か、継続か、選択か、才能か。普通の人はどうすれば状況を打開できるのか」。——普通の人は、たいてい普通の人のままだ。何かの一流をやみくもに追い求める必要はない。平凡であることは、凡庸であることではない。本来の十全さがあり、誰の魂も平等であり、静けさや幸福、喜びは、一流かどうかとは関係がない。もちろん、この状態も努力で達成できるものではなく、やはり運次第だ。この状態に達すると、「普通の人」であっても、しばしば「一流」になる。時に安んじ、命に従い、自然に任せる。

十一、運命を受け入れ、自然に任せる
究極の答えとは、人は究極の答えを見つけられないということだ。もうどんな答えも探さず、彼岸は今この場所にあり、ただ静かに生きている。
何もかも運命。与えられたものを生き、自然に任せる。
この記事は消極的だと思われるだろうか。——荘子本人でさえ消極的だと思われているのだから、私にいったいどれほどの徳や力があるというのか。誤解を受け入れ、自然に任せる。

付記:
一、努力という論題についての補足:
前の記事『努力についての特集討論:早く努力をやめよう』
A.では心理療法家の「努力」や「介入」はどう考えるのか
心理療法家は庭師であって、外科医ではない。庭師は、バラが咲くのはすべて自分の手柄だと言えるだろうか。
心理療法家は、平凡さや業の障りの中にいる人を、「光に満ちた完全さ」へと「質的に変化」させられるのか。
心理療法家自身も、その「知識」や「療法」も、すべて歴史的発展の結果であり、社会の有機的な構成要素だ。当事者の「本来の自己と業の障り」のせめぎ合いには、それ自体のリズムがある。その人が自ら心理療法家を訪ねることも、心理療法家がどれほど役に立つかも、すべてそのリズムの一部だ。この人はもともとよくなりかけていたのに、リストラで失業し、また悪化した。これは心理療法家が決められることなのか。
個人の意志がこのリズムに介入できるのは、いったいいつなのか。
B.科学者はずっと努力しているのでは?
科学者はずっと「努力奮闘」しているからこそ、科学は進歩し続け、知識はますます発展し、生産力と人類の運命には絶えず巨大な変化が生じ、人類社会の文明の水準は向上し続けている、と問う人がいる。そのとおりだ。
だが、オウムは話すことができ、犬や猫も人に合わせることを覚え、みなますますよい暮らしをしている。彼らも努力しているのか。それとも、ただ流れに従っているだけなのか。
しかも、人類の歴史に、個人の意志が介入できるのか。
地球上の六十億のプロレタリアは、どんな暮らしをしているのか。それを誰が変えられるのか。プロレタリアは「努力」していないのか。科学者の努力を強調することで、いったい何を強調しているのか。
科学者自身はどんな暮らしをし、どのような業の障りを抱えているのか。史的唯物論もまた、まさしく運命なのだ。
C.地方の受験秀才が、極貧の農村から試験に合格して北京に進み、昇進、昇給してCEOになる。これは天に逆らい、運命を変えたということではないのか?
ではなぜ、建国以前の数千年間には、それを成し遂げられる地方の受験秀才はめったにいなかったのに、1990年以降には多くの人ができるようになったのか。これは歴史の過程であって、個人の努力ではない。成し遂げられなかったほかの人々は、本当にただ、天に逆らって運命を変える努力をしなかっただけなのか。運命を前にした臆病者や愚か者なのか。では、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの何十億もの子どもたちは、なぜできないのか。
まさに「刻苦努力」を盲信するこうした人々が、子どもを猛烈に競争へと駆り立て、子どもを崩壊させている。この子どもたちの運命はよいのか。この子どもたちが心理的な問題や、よくない学校、仕事に沈み込んでいくとき、それはただ、自分が親の世代ほど努力していないからなのか。これが彼らの業の障りなのだ。何もかも運命だ。
二つの世代の心理的な問題は、どちらも運命や時代の一部であり、癒えるかどうかも命次第だ。多くの母親は、この二世代を癒そうと「努力」しているのではないか。さらに多くの母親は、自分自身も気づいておらず、ただ苦しみ、問題が何なのかもわからない。無数の人々が、知らず知らずのうちに苦しめられている。
目覚めさせるというのは偽の概念だ。まるで、一流の革命家、教育者、心理学者たちが試みたことがないかのようではないか。史的唯物論と運命。
ああ、そういえば、このエリートたちが40歳でリストラされ、失業したときには、どうして「努力して運命を変える」ことをしなくなるのか。どうして「社会全体の状況に文句を言うより、自分の問題をもっと探せ」とは言わなくなるのか。
あるネットユーザーが質問した。大学生には状況を打開する方法があるのか。——打開できないからこそ、行き詰まりというのだ。誰もが力を尽くしており、何もかも運命だ。凡庸さを受け入れ、すべてを受け入れ、受け入れられないことも受け入れ、自然に任せる。「努力して何かをする」というのは、まるでその人の努力がまだ足りないかのようだ。
D.悪人は努力して変わるべきではないのか
では、自分が悪人であり、身近な人たちをひどい目に遭わせ、めちゃくちゃにしてしまったと気づいたとする。私は積極的に努力して変わるべきではないのか。
そういう人でさえ、変わらなければと気づき、実際に変わることがしばしばある。これはまさに、人の本来の十全さ、本来の自己の強さを示している。自ら癒える力の強さを示している。
しかも、業の障りがとりわけ深く重い人は、自分に問題があり、変わる必要があること自体にまったく気づけない。この「意識」こそ、本来の自己の気づきなのだ。
悟るか悟らないかということに、人が他人に対して簡単に介入できるのか。人類には何千年も前から法律も裁判官も教師もいるが、介入できたのか。
生産力と生産関係の進歩に伴い、戦争、飢饉、人肉食、凶悪犯罪は大幅に減少した。これは歴史が作用しているのだ。
E.では農民蜂起や反乱、革命は、努力して運命を変えたということではないのか
そうではない。蜂起や革命は、すべて時代の産物だ。個人の努力は一度も作用しない。蜂起や革命は、歴史を変えているのか。それとも、歴史そのものの産物なのか。
では、人と人の不平等は克服しなくてよく、ただ受動的に受け入れるだけでよいのか。——何と言われようと、実際そのとおりなのだ。
ではマルクス・レーニン主義は間違っているのか。——マルクス・レーニン主義は科学的理論であり、私有制がもたらす不平等がいかに必然的に革命をもたらすかを科学的に説明し、歴史の法則を説明し、人に歴史への従い方を教えるものだ。あらゆる不平等をなくし、歴史の変化を加速させる魔法ではない。
人の背の高さや低さ、太っているか痩せているかは、永遠に異なる。マルクス主義が関心を寄せるのは、そうした違いが、人による人の隷属をもたらさないことだ。
F.減量は「努力」と関係がない
減量とは、表面的には、私が多くのことを乗り越え、運動など、つらいことをたくさんできるようになったということに見える。実際には、小さな自我の貪り・怒り・愚かさや、暴飲暴食、夜更かしして遅く寝るといった業の障りが弱まり、心身がもともと望んでいた運動や、腹七分目のあっさりした食事ができるようになったのだ。
すべては本来の自己の働きであり、しかも、本来の自己がちょうど業の障りに打ち勝てる状態にあり、外的な条件も、あっさりした食事や十分な睡眠を可能にしてくれたからだ。
減量ほど努力と関係のないことはない。業の障りに抗う力がなく、「努力して減量する」ほど落ち込み、意気消沈し、太っていく人をよく見かける。
G.恐ろしいのは「努力」で利益を得ること
暗黙のルールに迎合し、詐欺を働き、人を欺き、投機し、裏切ることで、利益を得る。
「私」は心の本能を「努力して克服」し、吐き気をこらえて嫌いな人々に迎合し、違法なことやグレーなことをして、金を稼いだ。これは業の障りが深まったということだ。否定的な小さな自我が力を発揮しており、社会の疎外が、その否定的な小さな自我に報酬を与え、強化しているのだ。
多くの業界や組織では、悪貨が良貨を駆逐する。業の障りの共振であり、その典型がヒトラーとナチスだ。
本来の自己がこうした作用に抗えなければ、生命は絶え間ない堕落となる。堕落は生命そのものが向かう方向ではない。外からの疎外であり、不幸な運命なのだ。